2007-08-28

日本というフィールド

僕はニューヨークに移り住んだ時19歳だった。その時、心に命じていたことは「とにかくいろいろ経験してやろう!」ということだった。それは、僕にとって新しい世界であるニューヨークをフィールドとしてとらえ、とにかくそのフィールドで発見できることはすべて発見し、吸収できることはすべて吸収しようと思っていたからだ。NYでの8年間は大変実りの大きなものであったし、ニューヨークというフィールドを十分使いこなしたといえると思う。もちろんまだまだやり残したことはたくさんあるが。
さて、それでは2005年に日本に帰ってきたときはどうだろう。ニューヨークに行った時とはSlightly Differentであったといえよう。それは当然日本という国を知っていたわけだし、19歳と28歳では社会的に置かれた状況も違う(特に日本では)。そこで、これまでNYで学んできたものを活かしながらも、日本では日本独自のものを学ぼうと僕は考えた。
僕はコミュニティをフィールドとし、コミュニティの中における人々の有機的な関係を形成することをその専門としてきた。コミュニティといっても様々なものがある。ドイツの社会学者テンニースゲマインシャフトとゲゼルシャフトという二つの概念で共同体の近代化を説明した。それはつまり、地縁や血族による結びつきが強い共同体としてのコミュニティから、近代社会としての市民社会という共同体への変化である。ところが、情報化社会への変化と共に新たな共同体概念が必要とされているという見方がある。つまり、オンライン・コミュニティなど新たなコミュニティによる新たなコミュニケーションの台頭で、共同体の概念も変わりつつあるという考え方だ。なるほど。
確かにそうかもしれない。実際に情報化社会において人々の生活スタイルが変わりつつあるし、それに準じてコミュニティの在り方も変わりつつあるだろう。そして、これからコミュニティを考える際に情報化社会という枠組みで考えない限り、見当違いなもの、又は重要な要素を欠いたものになってしまう。
それでは今日における「日本というフィールド」をとらえるときに果たして情報化社会という枠組みは有効であろうか。残念ながら答えはNOであろう。
どちらかというと日本に存在する独自のコミュニティに注目することが有効であるように思う。
コミュニケーションの方法は変わってきていても、基本的に人々が共同体を形成するメカニズムはそれほど変わってきていない。地域という物理的な空間の中に人が住み、人が顔を合わせているからであり、そうしたコミュニケーションがなくなることはない。インターネットが普及し、多くの地域のオーガナイザーたちがメーリングリストやホームページを駆使して活動を行っている。それ自体は、ツールとして有効であるが、おそらく多くのオーガナイザーたちは、それらのツールの限界に気付いていると思う。メールを何百人に出すよりも、20人が物理的に集まるミーティングを開いたほうがよっぽどポジティブなコミュニケーションを持つことができる。ここでいうところのポジティブとは、メンバーのコミットメントを得るというプロセスや、リーダーシップを形成するプロセスなどCOに欠かせない要素が、物理的なミーティングを通して形成されるということだ。
まぁ、話は長くなったけど、日本に帰ってきて学んだことは、日本独自の村社会によるコミュニティ形成である。たとえインターネット社会で、新たなコミュニケーション方法を考察しなくてはと言っていても、その根底には「日本人」によって形成される村社会という独自の社会が成り立っている。限りなくゲマインシャフトに近いものだ。この現実を見つめて、この中で人々がどのようにコミュニティを形成するのか、しっかり学ぶ必要がある。
何でこんなことを書いたかというと、情報化社会の高揚とともに新たな時代のコミュニティ形成という考え方が氾濫しているように思うからだ。それ自体重要なことだし、科学技術の進歩とともに人間の生活様式や価値形成は変化し続けることは当然だからである。ここで重要なことは、よりリアルに考えることが大切ということ。ネット社会における理想的なコミュニティというビジョンに引っ張られて、いつの間にか人間一人ひとりのことが見えなくなってしまい、自分の掲げる理想をあてはめるような考え方が目立つ。ビジョンを提示することは大切である。同様に、そのビジョンをどのようにしてより多くの人と共有しながら、ああだこうだ言ってつくり変えていく、そんな役目を担う人をビジョンに組み込ことが重要である。ワンクリックで様々な物事ができてしまうせいでコミュニティもワンクリックやクリックの集合体で成り立っていると勘違いしてしまいがちだが、よーく現実を見てみよう。現実はもっと複雑であり洗練されたものである。

2007-08-24

Paid Organizer

さてと、久しぶりの投稿です。しかも今回は、約2年ぶりに滞在しているNYから。
今回滞在中の目的の一つは、以前僕がNYでオーガナイザーとして仕事をしていた時に所属していたINCOというプロジェクトの同僚約15名に対してヒアリング調査をすることである。今のところ順調で、たくさんの貴重な意見を聞くことができている。以前勤務していた時は、共通のプロジェクトに取り組みながらも、お互いのバックグラウンドやパーソナリティの部分にまでそれほど干渉したことはなかったので、今回の調査を通して改めてお互いに関する新たな発見があった。
INCOの何よりも特徴的なことは、コミュニティ・オーガナイザーを雇うための資金をNY市内の非営利団体に提供しているところにある。これは、今日ではなかなかありえないことであるし、過去にもINCOほど大きな規模でオーガナイザーの人件費を確保したプロジェクトはなかったのではないかと思う。そう、COのメッカであるアメリカでも、それが現実なんだね。
そこで、専門職として雇われてCOを専門的にこなすオーガナイザーについてちょっと考えてみた。
これまで、俗にコミュニティ・オーガナイザーといわれてきた人たちの仕事は、その100%がオーガナイジングというわけではなかった。例えば、ケースマネジメントをしながら、個別援助ではどうにもならない問題(たとえば貧困地区における住宅問題など)を抱え、よりマクロなアプローチを行う必要性を感じ、結果的に彼ら・彼女らの業務の中でCOの方法論を駆使することが一般的になったりといったようなケースだ。ほかにも、ボランティアとして活動しているうちに、活動のリーダーとなり、コミュニティ・オーガナイザーになったというケースもあるだろうし、非営利団体で一つのプログラムを統括するディレクターとして勤務していたが、オーガナイジングなしではプログラムの存続が不可能となり、当事者を組織化することでプログラムの存続をうったえるといったケースも考えることができる。もちろん、いずれにせよ当事者の声があって初めてそれぞれの活動が意味をもつようになる。
それでは、COを専門としたオーガナイザーを雇うことはどれほど意味のあることなのだろうか。オーガナイザーとは本来、必要に迫られ、ごく自然な営みの中で生まれる存在であるが、365日オーガナイジングだけをこなす雇われオーガナイザーとは果たして必要なのだろうか。そのオーガナイザーの存在が当事者主体の原則を濁すことにはならないのだろうか?
そんなことを考えながら、例えば僕が現在の日本でもっとも深刻な問題と思うニートについて考えてみた。ニートという言葉がどこまでを指して用いられるか再度検討する必要があるが、登校拒否や引きこもりという個別のケース以上に、子供の育て方が分からない、または子供とのコミュニケーションを図ることができない親の問題であったり、精神的な疾患の問題であったり、公的扶助の問題であったり、ニートといっても一言では語りきれないほどの大きな社会的な問題を内包している。
それでは、そのニートの問題に取り組むコミュニティ・オーガナイザーは必要であろうか?若者自立塾が全国にできているようにニートの若者支援の団体は全国でもたくさん立ち上がっている。それぞれ、ニーズに応じたプログラムを開発し、ニートの若者の社会復帰を支援する方法を開発している。当然、マクロレベルでの交渉もあり、メディアなどによる啓発活動、政府による緊急対策検討会などを通して国の補助を受けて行われるプログラムとして確立するにいたった。しかし、現状は経済的に余裕のある家庭しか利用できない状況であり、ニートの若者を抱えることで貧困の状況から抜け出すことができなくなっている家族などに対する支援は、まだまだできていない。これに関しては、行政も頭を悩ましているが、最近では生活保護事業の中の自立支援プログラムなどで対策が進んでいる。
本題に戻ると、こうしたニート支援団体にとってオーガナイザーは必要であろうか?なんとも言えない。なぜなら、まず第一にニートの問題に関して言うと、当事者および当事者の家族は何をしていいか分かっていないし、ニートの若者を抱える家族は問題の所存は自分たちにあると思っているからだ。全国で何百万人ものニートがいて、社会問題といわれていても当事者たちは個人の問題として考えている。それに応じて、ニート支援団体も、自分たちが今後どのような支援を展開するべきか明確なビジョンを提示しているようには見えない。中には、ビジョンを持った団体ももちろんあるが、全国レベルのアドボカシーへと発展するような流れは見えない。政府が全国のニート支援団体を若者自立塾としてまとめた功績は大きいと思うが、それらの団体の中から今後の明確なビジョンが生まれてきていないと思うし、僕が見る限り、これらの団体が自ら結束を強めているという動きもない。まぁ、僕が知らないだけで、いろいろな動きはあるのかもしれない。
当事者もどうしていいか分かっていないし、政府もどうしていいか分かっていない問題を、専門的に分析し、当事者の視点を持ちながら解決へ導く専門職がソーシャルワーカーなわけだが、ここでは、仮に有能なソーシャルワーカーが存在し、支援団体がそれなりのビジョンを持ち動き始めていることとして話をすすめよう。
まず、全国レベルのアドボカシー活動を展開することになると、まず当事者のニーズを把握する仕組みが必要とされる。そして、そのニーズを他の支援団体と共有することが重要になり、そのニーズを元に場合によっては新たな事業へと発展することもあるだろうし、マクロな政策提言という形でアドボカシー活動へと発展するかもしれない。こうした一連の流れを誰かが指揮しなくてはいけない。
ここで、当然支援団体の中のリーダー格の存在が思い当たると思う。当然、そのリーダー格の人は全国的な動きを誘導する必要があるが、実際に当事者の声を吸い上げることは不可能だろう。つまり、当事者のニーズと全国的なアドボカシー活動の間の血液循環を助ける存在が必要になってくる。それがコミュニティ・オーガナイザーの存在であろう。
よく、アドボカシー活動の理想は、当事者がみずからを組織し、当事者の代表が政策提言をするといったイメージが存在する。否定はしないが、物事はもう少し複雑である。
こういう例えをするとわかりやすいかもしれない。
たとえば、ある団体が自分たちの活動を世間に知らせるためにホームページを作ることにしたが、ホームページを作るノウハウを持った職員は一人もいなかった。そこで、ウェブデザイナーという、常に彼らの活動を世間に対して発信する専門職を雇うことになった。このウェブデザイナーは、ホームページ上で語られる活動を担当しているわけでもなければ、当事者とかかわりがあるわけでもない。彼・彼女の役割は、あくまでも専門知識を使って団体の活動を世間に知らせることである。この団体にとって、このウェブデザイナーがいるといないとでは、大きな違いが生まれる。このウェブデザイナーが当事者である必要性はなく、重要なことは、情報が発信されるということである。
同様のことが、コミュニティ・オーガナイザーにも言えると思う。当事者の声を拾い上げ、社会的な枠組みで分析することに長け、プログラムの開発や、政策的な提言といったアドボカシー活動へ導く能力を有する専門家であるコミュニティ・オーガナイザーが当事者の代表である必要はない。大切なことは、仕事も最も効果的にこなすことのできる存在であるということだからだ。
話がだいぶ長くなったが、今回多くのフルタイムで働くコミュニティ・オーガナイザーに対する取材をしながらそんなことを感じた。