2007-05-31

Operational Hypothesis

「作業仮説」とか訳されるのかな。とっても重要なことだし、COの最も得意とする部分だろう。
どういうことかというと、COは現実の複雑さにたいして働きかけるということ。
多くの政策はHypothesisの上に成り立っている。
Hypotheticalという言葉があるが、どういう時に使われるかというと、例えば「男女雇用機会均等法に従い当社では男女差別のない業務遂行を行っています」とある企業の人事部の人が言ったとすると、それに対して"What you are saying is hypothetically correct, but how realistic is that?"(あなたのいっていることは仮設的には成り立ちますが、どれくらい現実的な話でしょうか)というように使われる。
政策の話をする時に、多くの話は仮説の段階では成り立つものの、それを現実の世界で実行しようと思ったら、なかなか成り立たないだろう。例えば、日本の生活保護制度というのは、制度としては世界を代表するようなすばらしい制度であるという。国民すべての最低限度の生活を保障し、生活の状況に応じて、医療や介護、その他の社会サービス、児童に対する手厚い保護、教育支援と、制度そのものを見ると充実した政策のように見える。しかし、現実は、生活保護制度に対するスティグマや、受給したくてもできない現実、ケースワーカーは担当ケースが多く、きめ細かなケースワークができず、保護受給者の人で、さらに借金を抱えてしまっているケースも決して少なくない。しかし、それらの制度には収まりきらない問題に対しても細かな制度を作っていたらきりがない。ましてや、それが社会における人間関係の問題であったりしたらなおさらである。上で挙げた例のように、男女差別の問題や人種差別、文化の問題などどんなにすばらしい政策があっても、その中でどのように物事が機能するかを考えなくてはいけない。だからOperational Hypothesis(作業仮説)を考えることが大切なんだね。
社会には様々な影響(変数)が存在するため(無限といってもいいよね)、仮設がどのように作用されるのかを考えなくてはならない。
先日、Crashという映画を見た。アメリカの人種差別と良心の話。人の中に存在している良心とは裏腹に、又は表向きの顔やステレオタイプとは別に人種差別の構図が成り立っている。その中で、どのようにして仮説を立てることができるだろうか。単純にアフリカ系アメリカ人は白人系アメリカ人によって抑圧されている存在であるからとか、社会的な立場が違うからというようなことは、現象的にある一定の関係を実証することができたとしても、Crashの中で行われているような、様々な不確定変数を計算することは不可能といってもいいだろう。というか、計算すること自体、無意味である。
ここで大切なことは、こうした社会の力動の中で作業仮説を立てるということは、つまり自己分析をするということなんだな。難しい話かもしれないね。関係性の不確定変数を計算することよりも、一人一人が自己分析をすることを進めることのほうが、よっぽど意味があるということ。
誰がこう思っていて、彼の肌の色は何色で、彼女はこういう価値観をもっていて、その人の友人はどういう立場で・・・・なんてことを言っていたらきりがない。でも、そういう細かいことが社会の中ではとっても重要だったりする。生活保護という生存権を保障するはずの制度が、様々な個人的理由からすべての保護受給者の生存権を保障し切れていないことが何よりの証拠!
だとしたら、最も有効なアプローチは自己がどのように確立するか、自分が社会の中でどのような存在であるかをそれぞれが分析することが有効なのではないだろうか。人間は多様な存在である。多様性を認めて、多様性を生かすような、そんなアプローチが必要だよね。Real Freedom for All.

120% of Obedience

今日は、戦略の話。
これまでにも何度か書いてきたけど、Henry D. Thoreauが著したCivil Disobedienceという本がある。これは、「市民的不服従」と訳されるが、本の内容は、市民としての責任を全うするためには、政府が決めたことに対して何らかの不服従の態度を示すことが重要であるということが書いてある。彼が用いている例は、市民の代表として選ばれた政府の代表者がスペイン戦争(メキシコ侵略)を敢行した際に、その政府を選出した市民の責務として、何らかの不服従の姿勢を示す必要があるということである。そこで、彼は納税を行わなかったことで刑務所へ送られる。しかし、彼はそれは市民としての責任と考えている。後に、こうした彼の平和的な不服従のアプローチをもとに、キング牧師ガンジーなどが非暴力による不服従という市民活動の形を再現したことは有名である。
さて、こうした「不服従」であるが、市民としての不服従は、対象が「公」であり、市民社会は市民の集合体であるという前提で成り立っている。つまり、市民社会の一員として、不服従の態度をとることは、公共性の確立を意味する。不服従というが、それは不服従ではなく、責任のまっとうであるという論理が成り立つ。
しかし、我々は「市民」としての顔以外にも様々な顔を持ち、様々な関係の中で生きている。
例えばそれは、上司と部下であったり、先生と生徒であったり、親と子であったりする。そこでは、「市民的不服従」のロジックは成り立ちにくい。なぜなら、そこには特別な関係が成り立っているし、上意下達の関係が普遍的に成り立っていることがある。特にそれが労働者と雇用主であると、労働という自己の商品化を通して関係が成り立っているわけである。まぁ、ここでマルクスや労働の話には入るつもりではないので、止めておくが。
さて、僕らが毎日生きていると、そうした特殊な関係の中に生きていることを思い知るし、いつのまにかそれに慣れてしまって、感覚が麻痺してしまっているかもしれない。だから、いつしか自分が上に立つ人間になったときに同じプロセスを繰り返すことになるだろう。
さて、こうした「非人間化」の関係性の中で、どのようにして人間性の確立を行うことができるのであろうか。「不服従」という選択肢をとらずに。
僕の経験の中で最も効果的な方法は、120%の服従である。100%の服従とはつまり、上の立場のものの意向に100%従うということである。頼まれたことは、どんなにいやなことでも、忙しくてもすべてこなす。考え方なども、基本的にすべて受け入れる(ここで大切なことは、受け入れるということであって、心から同意する必要はない)。つまり、相手の意向をすべて満たすわけである。相手の意向をすべて満たしたときに、相手を飲み込むことができる。そこで、さらに相手が求めている以上のことを実行すると、それはすべて自分の経験となる。つまり、上の立場の者のコントロールが及ばないこと、想像力を超えたところで自己を表出することが重要なのである。その時に、上の立場のものは困惑する。自分の支配下にあるものが、自分が求めていることをすべてこなし、さらに自分の名の下に行動をとる。それは、上の立場のものにとっては誇らしいことかもしれないが、自分の想像を絶することであり、どのようにしてコントロールしていいか困ってしまうかもしれない。大切なことは、相手をすべて飲み込み、さらにそのうえでプラス・アルファを行うということである。これが、120%服従の理論。
もちろんそれが、暴力的な関係の上に成り立っていたり、身に危険を及ぼすような関係にあるときには、通用しないかもしれないし、気をつけなくてはならないかもしれない。しかし、我々が近代国家の人間関係の中で、頭を悩ましている上下関係のようなものにはたいてい成り立つ。しかも、労使関係の中には抜群の効果を発揮することは自分の経験の中で実証されていると思う。
この理論の唯一の欠点は、死ぬほど努力しなくてはならないということ。相手の要望を満たすことだけでも大変であるが、さらにプラス・アルファとなると相当の努力が必要なので、ある程度計画的実行する必要がある。相手にとって脅威となるまでに、何ヶ月、何年くらい努力できるか。戦略である。
なんだか、このように書くとまるで、緻密な反抗のように見えるかもしれないが、反抗ではないと思う。大切なことは、これは気づきのプロセスであるということ。上に立つものにとって、相手をコントロールするということはどういうことなのか、又はコントロールできなくなったときに、その関係は成り立つのか、実は主従関係とは、上に立つものさえも非人間化してしまうのである。その非人間化された状態に気づくプロセスを下にいるものが成長することで、作り出すということ。つまり、上意下達の関係を上の者から解除する、解除せざるを得ない、又は自分を人間化するためには解除せざるを得ないような状況にもっていく。これを逆に、主従関係や、自分の力が及ばない立場に納得いかないからといって、最初から反抗していたら、おそらく非人間化のプロセスはますます進むだろう。Condition of Originが成り立っているからね。
なんだか、だらだらと書いてしまったが、今自分が抱えているストレスフルな関係や、非人間化された関係をもう一度見つめなおして、戦略的に人間化するプロセスを考えてみたらどうだろうか。120%の服従には確かに努力が必要だが、その戦略がある程度明確になることで、不思議なほどのエネルギーが生まれてくるものである。

2007-05-19

世界の問題の裏側

いやぁ、眠い。眠いけど、いっちょ書いておくか!
ということで、一昨日から台湾の社会政策学会の会長である陳先生と事務局長の古先生が来日し、同志社大学と日本の社会政策学会で講演をされた。その中で、陳先生の講演の内容は「社会的セーフティネットとグローバル化における社会・経済格差」というものだった。ここで、陳先生はグローバル化の影響により、アジア諸国に限らず、世界中の国々で、同様の課題が発見されていると説明された。
例えば、少子化や高齢化、家族構成の変化、経済的投資と経済の国際化、政党政治などを挙げることができるということだ。具体的には、出生率が低下したり、独身者や、単親家族、国家以上の経済的影響力を持った多国籍企業の出現や、政治の形骸化などにつながるという話。なんだか、漢字だらけで、ちょっと僕のブログっぽくなくなってきたので、そろそろ話をいつもののりにします。
こんな陳先生の話を聞いていて思ったことは、社会の問題といわれることは、問題と見るから、問題なのではないだろうかということです。養老孟司さんが「バカの壁」という本の中で書いているけど、失業率が高いことっていうのは、そんなに問題なのだろうか。そもそも、人が働かなくても生きていけるというのは、人類の長年の夢だったのではないだろうか。確かに、仕事をしないことで、本人が落ち着かなかったり、人生における充実感を失ってしまうことは、問題かもしれないけれど、仕事をしないで、自分が本当に従事したいことに打ち込むことができる世の中って言うのは、理想なのではないだろうか。職がなくても、ご飯を食べて生きていける人がたくさんいるって事は、人類が長年求めていたことではないのか、そんなことを養老さんは書いている。
同じようなことが、例えば少子化や高齢化にも言うことができるのではないだろうか。
何事も「問題視」するから問題に見えてしまうけれども、もう少し正の部分に光を当てると、例えば、少子化というのは女性の社会進出が進んだ結果であるし、高齢化というのは保健・衛生が整い、平均寿命が延び、介護や医療が整備されていることを意味するし、家族構成が変わったということは、結婚や離婚の選択肢の幅が広がり、決められた家族の型にはまらなくてもよくなったということで、結婚という選択肢を選ばないカップルや、同性愛者の家族、両親から離れて自立して暮らす子供など、いろいろな選択肢が提供されているということだと思う。また、多国籍企業の出現によって、世界規模で技術革新が進み、科学の進歩が急ピッチで進んでいる。その結果、宇宙工学やナノテクノロジーへの投資も可能となり、宇宙や人間、生命体に関する探究が進められているわけである。そもそも、人類が何世代にもわたって繰り返し問い続けてきた「我々はどこから来たのだろう」「私は誰」「死とは何を意味するのか」といった疑問に対して、科学的に取り組み、この100年ほどで、人類は躍進的にその問いに答えるための歩みを進めることができたといえるのではないだろうか。ちょっと、ロマンチックになりすぎかなぁ。
また、最後の政党政治の問題は、まさに民主主義の問題である。確かに、政党政治になり、市民にとっては選択肢ができたようで、実は党の力の奪い合いのゲームに巻き込まれて、本当に市民が望んでいることが政策に反映されていないかもしれない。しかし、チェック&バランス機能は間違いなく増している。封建社会では、王や皇帝などが、独裁的に国の指針を決めていたが、現在の政治構造にはそうした独裁的な動きを抑止する仕組みが内包されているし、民意の反映という意味では格段に柔軟な体制になっていることは確かである。何事も、比較概念で考えることはよくないけれど、50年とかのスパンで見る限り人類は確実に民主化の道を歩んでいると思う。
ここで大切なことは、そういったことを50年とか100年とか300年とかのスパンで考えることだと思う。実は、陳先生の述べたことはほとんど、アメリカの建国者たちが思い描いていたことだと思う。アメリカのFounding Fathersと呼ばれる人たちはかなり大きなスパンで、アメリカという国を、そして人類における民主化の流れを築いた。今日のアメリカの政策を思想的に見ると、いまだに当時の考えとそう変わっていないということは良くわかると思う。
つまり、おそらく問題があるとしたら、近代を生きる僕らが目先のことばかり見ていて、100年単位でものを考えることができていないということだと思う。これだけグローバル化が進み、技術が進歩し、宇宙の仕組みが分かってきても、僕らの頭の中は目先の3センチくらいしか見ていない。皮肉なものですね。
ちょっと歩みを止めて、ゆっくり考えなくてはいけないね。一日じっくり考えるだけで、100年単位で、物事が変わるかもしれない。一日を100年につなげるのも、オーガナイザーの役目ですね。
友達をちょっと川原の散歩に誘うことから、物語は始まるのかもしれない。鴨川がいいかなぁ。

2007-05-14

Comprehensive Optimism

こんなにBlogから遠ざかっていたのは、初めてかもしれません。
実は、その間いろいろと下書きをしたりもしたのですが、どうも肩に力が入ってしまってる感じでよくない。学者病ですね。このブログで書きたい本質的な部分に関するネタは、コミュニティ・オーガナイザーとして働いていたときのほうが豊富だったように思います。研究職になると、どうも頭でっかちになってしまいよくない。感性が、失われますね。
さて、そんなことで、今日は肩の力を抜いて、短いものをぱっと書いて、寝ます。
今日、同志社大学Martha Mensendiek先生の授業にゲスト講師として呼ばれたので、同志社大学の3回生に対して僕がニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていたときの話をした。特に、CO道のテーマでもある"Comprehensive Optimism"に関して話してきた。Googleでこの言葉を検索しても、あまりぱっとした検索結果が出てこないし、CO道のホームページが5番目に出てくるということは、まぁ、そんなものって事ですね。これは、僕の造語ですが、きっと誰にでも理解できることだろうし、特にCOの経験を通してその考え方が血肉に染み入るものだと思います。
まぁ、それはいいとして、今日思ったことは、コミュニティ・オーガナイザーに必要な条件は、1に計画性、2に優れた事務能力、3にここぞというときのリーダーシップ、だということです。
それは、Comprehensive Optimismにもつながると思う。何かを継続的かつ具体的に積み重ねることが、Optimismを持てるということです。これに限る。
PessimismやOverwhelmingnessとは、現実と理想のギャップによって生み出される。つまり、現実をgrasp出来ないときに、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまったり、悲観的になるということ。その解決方法は、まずリラックスして、一つ一つこつこつやること。ましてや、コミュニティにおいて、複数の人間が、共通の目標を持ち、行動を共にするとなると、個人の持つイメージと、他のメンバーの持つイメージのギャップからその船が自ら沈没してしまうことがある。大切なことは、まずリラックスして、周りを見回して、人とつながり、具体的に行動する。コミュニティ・オーガナイザーとはそういった、一連のプロセスを側面から支える役。
今日の90分の講義で、それがどこまで伝わったかなぁ。なかなか難しいものですね。