2006-12-30

Thinking and Feeling for Action

今日は、島根県松江市における実践の話。
僕は、自分が師事している先生の関係で、島根県松江市の地域福祉活動に少しずつ関わり始めている。松江市は人口20万弱(合併以前は約15万)の中国地方を代表する都市で、空襲や震災にあわなかった市内は、きれいな城下町がのこっている。 旧松江市内は21の小学校区に分かれていて、各校区には地区公民館が一つ存在する。今年、ミネルヴァ書房から出版された「松江市の地域福祉計画」という本を読めば詳しい内容が書いてあるが、松江市の地域福祉の基本はその公民館における地域活動にある。日本でコミュニティを語る上で、公民館の存在は無視できないと思う。そもそも公民館は「教育」の一環として位置づけられていて、文部科学省の管轄下にある。つまり、地方自治体レベルでは教育委員会が管理している。日本に限らず、行政とはタテ割りのもので、教育委員会と市の福祉課が協働するということがあまりない。それを当たり前と思い、教科書どおりの勉強をしていると、公民館は「生涯教育」という教育の一環としてしか理解しないで、地域全体のダイナミズムを無視してしまいがちなんだな。住民としてみれば、公民館の管轄が教育委員会であれ、福祉課であれ、市民活動推進課であれ関係ない。地元の施設であり、立ち寄りどころであり、身近にある公の施設なわけだ。
この「身近な公」と言うのが結構大切で、「公」となると、急に遠い存在になってしまいがちだけど、公民館の場合「身近」なわけだ。その身近さが親近感を持つことに役立つし、参加する上での敷居が低くなるし、主体性を持って地域住民が管理することにつながりやすい。
そんな、地域の活動の拠点であるはずの公民館は日本全国津々浦々に存在しているが、地域によってそれを有効利用しているところもあれば、全く機能させていないところもあると思う。地域福祉が盛んな自治体は公民館をうまく利用しているところが多いように思う。いや、公民館を利用して、地域住民がつながっている自治体こそ、地域福祉を推進することができていると言えると思う。
例えば、松江市の公民館の場合、自主運営方式をとっていて、住民が会員となって一年間会員費を支払うことで利用できるようになっている。会員費といっても一世帯につき年間700円程度の話である。しかし、その700円を支払うと言う行為が、住民の帰属意識を高め、自分たちの施設であると言うownershipをつくりだすことに役立っている。また、松江市の公民館を訪ねて驚いたことは、どれもきれいに整備されていることである。バリアフリーへの取り組みや、男性のトイレに赤ちゃんのオムツ交換のための台が取り付けられていたり、冷暖房は無駄をなくすために、コイン式だったりと、そうした細かいソフト面での気配りが、ハード面としても現れている。今回のタイトルでも書いているとおり、人間が何かの活動を行うときに、そこには共通の理念のようなものが存在し、共通の価値観を生み出し、共通の感情や感覚を持つことでひとつの組織化された活動となるわけだ。それが、福祉団体やNPOなど、その理念が中心で活動していると、理念(ソフト)ばかりが先行してしまい、ハード面に目が行かなくなってしまいがちである。例えば、障害者が働けるレストランを開くときに、確かに営利にはつながらないかもしれないが、障害者の雇用機会の平等や促進と言う理念と同じくらいに、当事者やレストランのお客さんにとって心地よい空間を提供することが大切になる。レストランだからと言うわけではなく、NPOなどの事務所を含めて、人の活動拠点となる場所には、ハード面でのそれなりの配慮が必要だと思う。そして、そのハード面での気配りが、利用する人や訪問する人の心に通じて、ソフト面として帰ってくる。そうしたプラスの循環をつくりだすと思う。それが、ソフト面にだけこだわっていて、ハード面をなおざりにしていては、不の循環がうまれ、いずれソフト面にまで影響が生まれてしまう。
松江市の公民館に行ったときの、あのなんともいえない居心地のよさと、その施設を使えることの喜びみたいな感覚は大切だと思う。それが「公」の施設だと言うことが、重要。ニューヨークのセントラルパークのようなものでもあるし、札幌のモエレ沼公園のようでもある。コミュニティ・オーガナイザーはそうした、人間の微妙な感覚を大切にしないとね。そういった意味では、建築家や都市計画に携わる人と、コミュニティ・オーガナイザーとはいろいろな面で共通する部分があるのではないだろうか。

2006-12-13

「対象」≒コミュニティ

二ヶ月ぶりくらいの投稿になってしまいました。まぁ、そんな感じで、マイペースに、好きなときに好きなことを書くスタイルで行きたいと思っているので、ご理解の程を。
しかし、書きたいネタが無いわけではなくて、書きたいことは山ほどあるのに、ゆっくりと文章にする時間が無いんですね。僕もだんだん日本のストレス社会、少子化社会、Workaholic社会にどっぷりつかっていくのでしょうか。こうして、未を粉にした人体実験は続くわけです。スーパーサイズ・ミーのモーガン・スパーロック監督も顔負けです。なんていったって、3ヶ月では終わらないからね、この実験は。(ちなみに、去年は、日本帰国後半年ほどニート体験実習をしていましたが、それも結構きつかったです。)
さて、話題を戻して、今回のテーマだけど、「『対象』≒コミュニティ」としました。この、「対象」と言う概念がどこから出てきたかというと、先日愛知県で行われた日本社会福祉学会主催の第三回政策・理論フォーラムのテーマが「対象論」をめぐってと言うものだったんだけど、今回も、前回に続き、ちょっとした自分のReflectionをお伝えしたいと思います。
フォーラムに参加した人は、きっと僕と同じようなことをかんじていると思いますが、今回のフォーラムは一回目二回目と比べても、後味の悪いものでした。どのように悪かったかと言うと、社会福祉の「対象」を政策的な視点のみで語り合い、「福祉の視点」が全くかけたものになっていたということです。ここで言う「福祉の視点」とは「当事者の視点」のことです。福祉政策からすれば、障害者も児童も、高齢者も、ニートも、フリーターも、引きこもりも、外国人も、母子家庭も、DV被害者も、ホームレスもみんな福祉の「対象」となりうる存在であり、その「対象」は時代の変化と共に変わっていくわけである。それは、政策的に誰を「対象」とするかで変わるわけで、シンポジウムの中で岩田正美先生が言っていたように、ホームレスは常に存在してきたが、政策が変化することで、福祉の対象となったり、ならなかったりしてきたということ。
それでは、誰が福祉の対象であるべきか。それを、政策の視点のみで語ったところで、答えが見つかるのだろうか。それって、結局「知恵の輪」解きでしかないのではないだろうか、と思う。
福祉が福祉たる所以は、その当事者の視点に立ったものの考え方にあるのだと思う。それが失われたときに、それはただの社会科学(現象)や政策科学(べき論)になってしまわないだろうか。
そもそも、「対象」と言う言葉自体が、福祉のコンテクストで使われるときにネガティブなニュアンスを含むと思うが、COの視点に立ったとき、対象化することはいたって、エンパワリングなことである。
例えば、子供が欲しくても養育費や教育費のことを考えると、なかなか生むことができないカップルが多いと思う。これは、少子化の枠組みでは、認識されているが、そうした子供を持てないカップルを福祉の対象として認識するには、まだまだいたっていないと思う。児童扶助や、子育て支援などの動きはあるものの、あくまでも子供を授かったもの対象であり、子供を持つ決心のつかないカップルは対象となっていない(子育て支援が、子作りの引き金になることはありえるが)。このように、対象化されていない対象に対して、自己認識を促し、自分たちが社会的な枠踏みの中で、何かしらの支援を必要としていると言うことを気づかせることが重要ではないだろうか。つまり、「福祉の対象」として認識されていないコミュニティを対象化し、コミュニティとしてまとめることで、政策や法案に反映するような動きをつくりだすことが可能なのではないだろうか、ということなんだよね。
まぁ、端的にまとめると、「対象」を政策の枠組みで語っていても、どんどんと迷路に迷い込んでしまうと言うこと。「対象」とは、その対象者が自ら「対象」と認識して初めて、機能する。パウロ・フレイレがブラジルの未識字コミュニティに対して、conscientizationという手法を通して自己認識を高めたことで、彼らは自分たちを被抑圧者として認め、初めて自分たちの運命・人生に対して向き合い、自らをエンパワーし、社会変革への道を築いた。彼らは、自分たちが識字教育の「対象」であること、そして、それが社会の枠組みの中で、どのようなことを意味しているのかを理解して初めて、その与えられた環境に変化を与えるために行動を起こすことができたわけだ。
「福祉の対象」を語る際に、こうした視点を失ってはいけない。ましてや、オーガナイザーにとって、この視点を失うことは、命取りとなるからね。