2007-12-28

半強制とon-demand

ずいぶんとブログから遠ざかっていましたが、年末だし、大掃除もひと段落したし、ちょっといろいろ思索にふけってみます。。。というよりも、今までため込んでいて書けていなかったものの年末大売出しというところでしょうか。
先日、数年ぶりに東京ボランティア・市民活動センターへ行ってきました。というのも、今度の2月8日から10日にかけて行われるボランタリーフォーラムTOKYO2008の企画に携わっているからです。このフォーラムの企画には2年前から携わって、昨年はノータッチでしたが、今年は関西から特別参加させていただいています。このブログでも以前触れたかもしれないけど、市民フォーラムという形態は今日のCOを推進するうえでの一つのツールとなったと思う。まぁ、ある意味ソクラテスが古代アテナイの道端で道行く人たちと対話を行っていたことと実質は変わらないと思う。形態が変わったわけだね。どういう形態になったかというと「市民活動」を推進している人たちがファシリテーターやコーディネーターとなり、議論の「お題」を提供する。そこに参加している「市民」がああだこうだと乗っかっていく。最終的に何か具体的なアクションの話につながることもあれば、お互いの意思の疎通を図ることになるかもしれないし、知識の共有化や情報交換としての機能を果たすことも多々ある。まぁ、それが俗にいう今日の「市民フォーラム」の形で、その代表的なものはブラジルのポルトアレグレで始まったWorld Social Forumだろう。ちなみに来年1月26日には、東京でも行われるみたいだ!これは参加しなくては!!
とまぁ、話がずれましたが、東ボラにフォーラムの打ち合わせで立ち寄った際に、来年1・2月号の「ネットワーク」に記事を寄稿させてもらったこともあり、担当の職員さんといろいろ座談していました。どんな話かというと、地域の拠点を考える上での「半強制」について。「半強制」というと、ちょっと抑圧的だけど、半強制の仕組みというものを改めて考え直してみたらいいのではないかということ。
たとえば、ニューヨークの僕の友人が住む高層マンションではマンションの住民のためのホームページがあるらしい。そのホームページ上では、住民のためのお知らせ(水道工事とかエレベーターの整備など)や、管理人へのメッセージなど、住民の生活にとって必要な情報&コミュニケーションツールとなっているらしい。それに加えて、住民はブログの書き込みや自己紹介ができたり、いらない物の売り買いやベビーシッター募集の告知を出したりと住民同士の交流や相互扶助を促進する役割もはたしている。でもまぁ、そういった情報を掲載するホームページはいくらでもあるけど、ここでポイントなのは、マンションの住民のみが見ることができるというある種の「排他性」と、マンションの住民にとって重要な情報が掲載されていて、定期的に確認する必要がある「半強制性」にあると思う。半強制的にホームページを確認することで、そのサイトが人が立ち寄る場所となる。まぁ、Yahoo!Googleのトップページのようなものだね。でも、最近ではGoogleのトップページもカスタマイズできるようになり、公共性よりも個別性が強くなってきていると思う。同様に、最近、巷では「オン・デマンド」が大流行していて、何かにつけて自分の趣向に合わせてカスタマイズされ、自分の好きな時に好きなものが得られるようになってきている。つまり、他社と共存・共有するという制約がなくなってきているわけだ。でも、人が何かを共にしようと思ったら、そこに時間や場所、趣向の制約は必ず出てくる。例えば先日、年末年始を実家で過ごすために帰省した。そこで、夜に家族の時間を過ごすのに、DVDでも借りてきて観ようといってもなかなか乗ってこない。でも、テレビで映画をやっていると、お風呂の時間などを遅らせながらも一緒にその映画を観る。ある程度の制約があることで、家族3人が一つになり、その映画を観ることになった。
不思議なものだ。
コミュニティを考えると、そこは制約の宝庫なわけだ。まず空間を共有することで、自分の好き勝手なことができなくなる。自分の家の中はどうなっていても、地域住民と共有している道路や公園では好き勝手はできない。さらに、コミュニティは様々なインフラを共有している。水道やガスや電気、それが都市となると、交通機関などのインフラも共有することになる。それだけではない。その場所で一緒に住むとなるとInternal Landscapeも共有する。どういうことかというと、頭の中にある自分の生活のイメージの中に、地域のイメージというものが形成される。周りに人間が住んでいるのに、無人島に生きているというイメージを持っている人はいない。それは、地域の人々と交流しているかいないかにかかわらずそういうイメージを持っているものだ。だから、何かのきっかけで近所の人との交流が始まると、すぐに仲良くなったりする。それは、頭の中ですでに空間を共有するメンバーとしてとらえていたからだ。人は社会的な生き物だというけれど、それは結局頭の中に「他者」のイメージを常に持っているからだ。動物に育てられた子供や、何十年間監禁されていた人は、他者のイメージを持っていないために、人間社会に溶け込むまでに時間がかかるという。
ここで考えるべきことは、僕らは皆、そうした「他者」のイメージを持ち「コミュニティ」に住んでいるけれども、世の中が「オン・デマンド」化され、個別主義になると、実際に交流するきっかけが減ってしまうことにある。
日本では住民の連帯を高めるために自治会を組織し、「半強制的」にコミュニティを形成してきた背景があると思う。ちょっとお節介の自治会長さんとか民生委員さんがいることで、地域のつながりが「半強制的」に生まれたり、持続されている。しかし、こうした半強制は今の時代になかなか合わなくなってきていることは、そうしたお節介の自治会長さんたちが一番よく分かっていると思う。今の時代には、今の時代の「半強制」が必要なのではないだろうか。その中で、自治会長さんや民生委員さんの活動が活かされるような工夫が必要になってくると思う。
そういった意味では、上にあげた、ニューヨークの友人のマンションの話は興味深い。
人が交流するきっかけを半強制的に作り出す。その「半強制」のやり方に工夫が必要となる。
コミュニティ・オーガナイザーはちょっと図々しかったり、お節介だったりして、半強制を上手に使いこなすものだ。遠慮とオン・デマンドばっかりだと、みんななかなか仲良くなれないものだからね。これから考えていきたいテーマです。

2007-09-28

「コミュニティ」とはアプローチである

何がいいたいのだろうか。とても大切なことを言いたい。
「コミュニティ」という言葉が「地域」と訳されたり、地理的であるとかアソシエーション型であるとか、いろいろややこしかったりするけれど、僕は「コミュニティ」とはアプローチを形容する言葉であると考える。または、その考え方や思想を思う。
価値も伴う。例えば、「コミュニティ的な考え方」といったら、そのまま通じてほしい。
「いやぁ、やっぱりお互いコミュニティの人間だから、話が早い!」なんて言うセリフも使ってみたい。
どういうことだろうか。

世の中で人々が生きていく上で何かしらの仕組みが成り立っている。
それを社会と呼んだり、システムと呼んだりする。
その仕組みを考える時に、政治・経済的な切り口がある。いや、政治・経済という言葉が適当ではないなぁ。まぁ、マクロ的と言っておこうか、ここでは。
つまり、日本の社会が動く仕組みを変えるには、○○という法律を可決することで改善されると思うとか、△△に予算を投じることで景気の回復が見込め…といった考え方がある。具体的な話だと、少子化対策などがその典型的な例。人間が生まれ死にゆく中で、この社会であったり国家を形成していて、その社会や国家の状況を改善するために、ある政策を投じることで解決を図る。ある意味では、有効な手段かもしれない。
一方、同様にマクロなアプローチではメディアというものがある。マスコミを使った情報操作による啓発であったり、プロパガンダであったり、世論をコントロールするひとつの方法だ。これも結構有効かもしれない。
これらの対極にあるのは、個人の尊厳を主張し、個人の幸福を価値観とするもの。
政治や経済が関係ないところで、個人の健康や幸福を担保としてひとつのアプローチを築く。
例えば、その個人の自由は尊重され、周囲に害を加えない限り何をしてもいいという考えの下、個人の自由を求める考え方がリバタリアニズムである。一方で、社会に精通していそうだけれど、実は個人の統制の話である儒教の価値観や古き良き伝統や文化なども、個人を基本としたアプローチだ。
少子化の例をもう一度出すと、未婚であろうとも、一夫多妻制であろうとも子供を持つことは自由であるし、子供を持たないことも自由であるという考え方も存在すれば、30歳になる前には男女ともに結婚し、子供を授かり、女性は子育てに励み、男性は勤労するという規範的な考え方も存在する。

というか、世の中こういったマクロな視点かミクロな視点がほとんどで、我々はその狭間で悩んでいるんじゃないかな。

個の集合体と個との間をつなぐものがなくて、困ってると思う。
その「つなぐ」という考え方が「コミュニティ」だと僕は思う。
ばらばらの物を何とかまとめなくてはというマクロの視点と、個人がどうすればいいのかという答えを提示するミクロな考え方と違い、個と個が結びつくことによって創り出される新たな空間をデザインする、そういう考え方が「コミュニティ」だと思うんだよね。
つまり、コミュニティ的な考え方とは

  • つなぐこと、つながること。つまり組織すること。
  • その組織の中で有機的な動きを生み出すこと。つまり、民主的なプロセスを創り出すこと。
だと思う。
だから「コミュニティ」という時にどのようなサイズを意図しているといった考え方はナンセンスで、「コミュニティ」とはあくまでもそのアプローチにある。
技術の進化と共に、コミュニティ的なアプローチが可能である空間のサイズはますます大きくなり、国家のサイズすら超えている。国際的なNGO活動がそれである。
Internet Governance Forumという国連のフォーラムがあるけど、それもコミュニティ的なアプローチを政策化しようとしている。まぁ、コミュニティがまだまだ未成熟だから「政策へつなげる」という背伸びをしなくてはいけないんだけど、コミュニティがより成熟すると政策というよりもお互いのルールづくりのようになると思う。まるで、車がスムーズに走るために、走行車両数に応じて信号が切り替わる間隔を決めるような仕組みを作るようなもの。
まぁ、そんな「コミュニティ」的なアプローチを真剣に議論のテーブルに上げる必要があって、そのためには組織化が必要なんだね。つまり、まずは右車線を走るか左車線を走るか合意を形成して、そんな合意を広げていくということ。ルールをあてはめるのではなくてね。
それが本質。

2007-08-28

日本というフィールド

僕はニューヨークに移り住んだ時19歳だった。その時、心に命じていたことは「とにかくいろいろ経験してやろう!」ということだった。それは、僕にとって新しい世界であるニューヨークをフィールドとしてとらえ、とにかくそのフィールドで発見できることはすべて発見し、吸収できることはすべて吸収しようと思っていたからだ。NYでの8年間は大変実りの大きなものであったし、ニューヨークというフィールドを十分使いこなしたといえると思う。もちろんまだまだやり残したことはたくさんあるが。
さて、それでは2005年に日本に帰ってきたときはどうだろう。ニューヨークに行った時とはSlightly Differentであったといえよう。それは当然日本という国を知っていたわけだし、19歳と28歳では社会的に置かれた状況も違う(特に日本では)。そこで、これまでNYで学んできたものを活かしながらも、日本では日本独自のものを学ぼうと僕は考えた。
僕はコミュニティをフィールドとし、コミュニティの中における人々の有機的な関係を形成することをその専門としてきた。コミュニティといっても様々なものがある。ドイツの社会学者テンニースゲマインシャフトとゲゼルシャフトという二つの概念で共同体の近代化を説明した。それはつまり、地縁や血族による結びつきが強い共同体としてのコミュニティから、近代社会としての市民社会という共同体への変化である。ところが、情報化社会への変化と共に新たな共同体概念が必要とされているという見方がある。つまり、オンライン・コミュニティなど新たなコミュニティによる新たなコミュニケーションの台頭で、共同体の概念も変わりつつあるという考え方だ。なるほど。
確かにそうかもしれない。実際に情報化社会において人々の生活スタイルが変わりつつあるし、それに準じてコミュニティの在り方も変わりつつあるだろう。そして、これからコミュニティを考える際に情報化社会という枠組みで考えない限り、見当違いなもの、又は重要な要素を欠いたものになってしまう。
それでは今日における「日本というフィールド」をとらえるときに果たして情報化社会という枠組みは有効であろうか。残念ながら答えはNOであろう。
どちらかというと日本に存在する独自のコミュニティに注目することが有効であるように思う。
コミュニケーションの方法は変わってきていても、基本的に人々が共同体を形成するメカニズムはそれほど変わってきていない。地域という物理的な空間の中に人が住み、人が顔を合わせているからであり、そうしたコミュニケーションがなくなることはない。インターネットが普及し、多くの地域のオーガナイザーたちがメーリングリストやホームページを駆使して活動を行っている。それ自体は、ツールとして有効であるが、おそらく多くのオーガナイザーたちは、それらのツールの限界に気付いていると思う。メールを何百人に出すよりも、20人が物理的に集まるミーティングを開いたほうがよっぽどポジティブなコミュニケーションを持つことができる。ここでいうところのポジティブとは、メンバーのコミットメントを得るというプロセスや、リーダーシップを形成するプロセスなどCOに欠かせない要素が、物理的なミーティングを通して形成されるということだ。
まぁ、話は長くなったけど、日本に帰ってきて学んだことは、日本独自の村社会によるコミュニティ形成である。たとえインターネット社会で、新たなコミュニケーション方法を考察しなくてはと言っていても、その根底には「日本人」によって形成される村社会という独自の社会が成り立っている。限りなくゲマインシャフトに近いものだ。この現実を見つめて、この中で人々がどのようにコミュニティを形成するのか、しっかり学ぶ必要がある。
何でこんなことを書いたかというと、情報化社会の高揚とともに新たな時代のコミュニティ形成という考え方が氾濫しているように思うからだ。それ自体重要なことだし、科学技術の進歩とともに人間の生活様式や価値形成は変化し続けることは当然だからである。ここで重要なことは、よりリアルに考えることが大切ということ。ネット社会における理想的なコミュニティというビジョンに引っ張られて、いつの間にか人間一人ひとりのことが見えなくなってしまい、自分の掲げる理想をあてはめるような考え方が目立つ。ビジョンを提示することは大切である。同様に、そのビジョンをどのようにしてより多くの人と共有しながら、ああだこうだ言ってつくり変えていく、そんな役目を担う人をビジョンに組み込ことが重要である。ワンクリックで様々な物事ができてしまうせいでコミュニティもワンクリックやクリックの集合体で成り立っていると勘違いしてしまいがちだが、よーく現実を見てみよう。現実はもっと複雑であり洗練されたものである。

2007-08-24

Paid Organizer

さてと、久しぶりの投稿です。しかも今回は、約2年ぶりに滞在しているNYから。
今回滞在中の目的の一つは、以前僕がNYでオーガナイザーとして仕事をしていた時に所属していたINCOというプロジェクトの同僚約15名に対してヒアリング調査をすることである。今のところ順調で、たくさんの貴重な意見を聞くことができている。以前勤務していた時は、共通のプロジェクトに取り組みながらも、お互いのバックグラウンドやパーソナリティの部分にまでそれほど干渉したことはなかったので、今回の調査を通して改めてお互いに関する新たな発見があった。
INCOの何よりも特徴的なことは、コミュニティ・オーガナイザーを雇うための資金をNY市内の非営利団体に提供しているところにある。これは、今日ではなかなかありえないことであるし、過去にもINCOほど大きな規模でオーガナイザーの人件費を確保したプロジェクトはなかったのではないかと思う。そう、COのメッカであるアメリカでも、それが現実なんだね。
そこで、専門職として雇われてCOを専門的にこなすオーガナイザーについてちょっと考えてみた。
これまで、俗にコミュニティ・オーガナイザーといわれてきた人たちの仕事は、その100%がオーガナイジングというわけではなかった。例えば、ケースマネジメントをしながら、個別援助ではどうにもならない問題(たとえば貧困地区における住宅問題など)を抱え、よりマクロなアプローチを行う必要性を感じ、結果的に彼ら・彼女らの業務の中でCOの方法論を駆使することが一般的になったりといったようなケースだ。ほかにも、ボランティアとして活動しているうちに、活動のリーダーとなり、コミュニティ・オーガナイザーになったというケースもあるだろうし、非営利団体で一つのプログラムを統括するディレクターとして勤務していたが、オーガナイジングなしではプログラムの存続が不可能となり、当事者を組織化することでプログラムの存続をうったえるといったケースも考えることができる。もちろん、いずれにせよ当事者の声があって初めてそれぞれの活動が意味をもつようになる。
それでは、COを専門としたオーガナイザーを雇うことはどれほど意味のあることなのだろうか。オーガナイザーとは本来、必要に迫られ、ごく自然な営みの中で生まれる存在であるが、365日オーガナイジングだけをこなす雇われオーガナイザーとは果たして必要なのだろうか。そのオーガナイザーの存在が当事者主体の原則を濁すことにはならないのだろうか?
そんなことを考えながら、例えば僕が現在の日本でもっとも深刻な問題と思うニートについて考えてみた。ニートという言葉がどこまでを指して用いられるか再度検討する必要があるが、登校拒否や引きこもりという個別のケース以上に、子供の育て方が分からない、または子供とのコミュニケーションを図ることができない親の問題であったり、精神的な疾患の問題であったり、公的扶助の問題であったり、ニートといっても一言では語りきれないほどの大きな社会的な問題を内包している。
それでは、そのニートの問題に取り組むコミュニティ・オーガナイザーは必要であろうか?若者自立塾が全国にできているようにニートの若者支援の団体は全国でもたくさん立ち上がっている。それぞれ、ニーズに応じたプログラムを開発し、ニートの若者の社会復帰を支援する方法を開発している。当然、マクロレベルでの交渉もあり、メディアなどによる啓発活動、政府による緊急対策検討会などを通して国の補助を受けて行われるプログラムとして確立するにいたった。しかし、現状は経済的に余裕のある家庭しか利用できない状況であり、ニートの若者を抱えることで貧困の状況から抜け出すことができなくなっている家族などに対する支援は、まだまだできていない。これに関しては、行政も頭を悩ましているが、最近では生活保護事業の中の自立支援プログラムなどで対策が進んでいる。
本題に戻ると、こうしたニート支援団体にとってオーガナイザーは必要であろうか?なんとも言えない。なぜなら、まず第一にニートの問題に関して言うと、当事者および当事者の家族は何をしていいか分かっていないし、ニートの若者を抱える家族は問題の所存は自分たちにあると思っているからだ。全国で何百万人ものニートがいて、社会問題といわれていても当事者たちは個人の問題として考えている。それに応じて、ニート支援団体も、自分たちが今後どのような支援を展開するべきか明確なビジョンを提示しているようには見えない。中には、ビジョンを持った団体ももちろんあるが、全国レベルのアドボカシーへと発展するような流れは見えない。政府が全国のニート支援団体を若者自立塾としてまとめた功績は大きいと思うが、それらの団体の中から今後の明確なビジョンが生まれてきていないと思うし、僕が見る限り、これらの団体が自ら結束を強めているという動きもない。まぁ、僕が知らないだけで、いろいろな動きはあるのかもしれない。
当事者もどうしていいか分かっていないし、政府もどうしていいか分かっていない問題を、専門的に分析し、当事者の視点を持ちながら解決へ導く専門職がソーシャルワーカーなわけだが、ここでは、仮に有能なソーシャルワーカーが存在し、支援団体がそれなりのビジョンを持ち動き始めていることとして話をすすめよう。
まず、全国レベルのアドボカシー活動を展開することになると、まず当事者のニーズを把握する仕組みが必要とされる。そして、そのニーズを他の支援団体と共有することが重要になり、そのニーズを元に場合によっては新たな事業へと発展することもあるだろうし、マクロな政策提言という形でアドボカシー活動へと発展するかもしれない。こうした一連の流れを誰かが指揮しなくてはいけない。
ここで、当然支援団体の中のリーダー格の存在が思い当たると思う。当然、そのリーダー格の人は全国的な動きを誘導する必要があるが、実際に当事者の声を吸い上げることは不可能だろう。つまり、当事者のニーズと全国的なアドボカシー活動の間の血液循環を助ける存在が必要になってくる。それがコミュニティ・オーガナイザーの存在であろう。
よく、アドボカシー活動の理想は、当事者がみずからを組織し、当事者の代表が政策提言をするといったイメージが存在する。否定はしないが、物事はもう少し複雑である。
こういう例えをするとわかりやすいかもしれない。
たとえば、ある団体が自分たちの活動を世間に知らせるためにホームページを作ることにしたが、ホームページを作るノウハウを持った職員は一人もいなかった。そこで、ウェブデザイナーという、常に彼らの活動を世間に対して発信する専門職を雇うことになった。このウェブデザイナーは、ホームページ上で語られる活動を担当しているわけでもなければ、当事者とかかわりがあるわけでもない。彼・彼女の役割は、あくまでも専門知識を使って団体の活動を世間に知らせることである。この団体にとって、このウェブデザイナーがいるといないとでは、大きな違いが生まれる。このウェブデザイナーが当事者である必要性はなく、重要なことは、情報が発信されるということである。
同様のことが、コミュニティ・オーガナイザーにも言えると思う。当事者の声を拾い上げ、社会的な枠組みで分析することに長け、プログラムの開発や、政策的な提言といったアドボカシー活動へ導く能力を有する専門家であるコミュニティ・オーガナイザーが当事者の代表である必要はない。大切なことは、仕事も最も効果的にこなすことのできる存在であるということだからだ。
話がだいぶ長くなったが、今回多くのフルタイムで働くコミュニティ・オーガナイザーに対する取材をしながらそんなことを感じた。

2007-07-05

Dear Social Workers and Social Workers-to-be

2007年7月6日。京都の小さな部屋の片隅でこうしてブログを書き込めることは幸せなことだ。僕はこの部屋で寝て、起きて、飢えをしのぐことができる。夏は暑いけど、喉をうるおすことができる。冬は寒いけど毛布で身をくるむこともできる。こうして京都に住んでいる限り内紛に巻き込まれることはないだろうし(I hope!)、地雷を踏むこともないだろう。でも、地球上のどこかでは明日生き残れるか分からずにおびえながら生きている人がいる。
そこにはソーシャルワーカーがいない。いや、いるかもしれない。NGOのスタッフがいるかもしれない。
でも、ソーシャルワークが解決策として認知されるには至っていないだろう。
より強力な武器や、環境や人の生活を無視した経済開発こそが、解決策として受け入れられているように思える。
しかし、武器に対して武器を向けることは本当に答えなのだろうか。
開発が進んで、日本のように経済大国になれば、みな幸せなのだろうか。その答えは日本に住んでいる僕らが知っている。
日本に住むことは本当に幸せなのだろうか。頭では幸せに生きる方法はわかっているし、幸せな生活のイメージは持っているのに、実際に幸せな生き方を選ぶことができているのだろうか。
全く同じ議論が、内紛を起こしている国の人々にも当てはまるのではないだろうか。お互いの足を引っ張り合う生活ではなく、お互い助け合って幸せに生きる方法を選ぶことは難しいことではないと思う。でも、なぜか全く反対の選択肢を選んでしまう。
こんな簡単なことなのに、僕らはなぜできないのだろうか。
コミュニティ・オーガナイザー(ソーシャルワーカー)の仕事とはそれくらい簡単なことだと思う。
僕は、社会を変える実行部隊として、ソーシャルワーカーの役割を信じている。
何よりも、ソーシャルワーカーという職種が成り立っているということが、僕らに希望を与える。
つまり、ナイチンゲールマザー・テレサのように自分の人生すべてを投げ出して人のために尽す人物が現れるのをただ指をくわえて待っているのではなく、我々は社会の合意の下、ソーシャルワークという社会の機能をつくりだした。それは、何よりの成熟社会の証ではないだろうか。
次のステップは、ソーシャルワークがどれだけ本当に社会に役に立つのか、どれだけ社会を変えることができるのかを証明することだ。
別に統計学的に、証明しなくてもいい。ただ、人々が本当に幸せな人生を送れるように、しっかり考えて、しっかり支援しよう。そして、内紛や腐敗で苦しむ国々の人たちに、こうして平和に幸せに生きましょうという見本を見せよう。今のままでは、だれも日本人の生活を見本にはしないよ。
想像力豊かに、幸せな生活をイメージしよう。

2007-07-02

Renaissance

最近改めて感じることがある。開放(ルネッサンス)しなくてはいけない。
以前にも書いたかもしれないが、僕は中学校時代に不良の友人がたくさんいた。最近では不良という言葉は使わないのかもしれないけれど、当時は使っていた。
例えば、学校に行かなかったり、違反の制服を着たり、髪の毛の色を抜いたり、たばこ吸ったり、お酒飲んだり、パチンコ行ったり、けんかしたり、ぜーんぶ大人がすることを背伸びしてやりたいのが不良なのかもしれません。でもそれって、いたって健康なことだよね。不良というと、精神年齢が低いと思われるけど、僕からすれば、不良の生徒は他の生徒に比べて、大人の感覚を持っていたし、好奇心旺盛だし、行動力があるし、自立していたと思う。自分の行動を自分で決断することができる人間が多かった。ただし、世間一般には、中学生は「大人」の言うことを聞くべきであるから、そういった意味では「聞き分けのない子」=「精神年齢が低い」と思われていたと思う。
自分で言うのもなんだけど、僕も小学生のころから結構ませていたので、自然と不良友達がたくさんいた。
しかし、不良の一つの特徴として勉強ができない、または苦手というのがある。これは、学校に来ないことで結果的に勉強が苦手になるのか、勉強が苦手だから学校に来なくなって不良になるのかはわからないし、どちらもあるのだろうと思うけど、とりあえず勉強が苦手な友達が多かった。というか、苦手ではなくて、学校の成績が悪かった。どちらかというと、当時の教育方法が彼らには合わなかったのだと思う。
まぁ、そんなこともあり、比較的勉強が得意だった僕が、試験前になると不良仲間がいつもたまっているところで家庭教師のようなことをしていた。当時、家にあった旧型のワープロを駆使してドリルのようなものを作ったことも記憶している。
なんでこんな長いたとえ話を出したのだろうか。僕が言いたいことは、僕には不良仲間がいて、勉強ができたということではない。僕の存在は、確かに特殊だったかもしれないけど、そういう特殊な存在だからこそ、学校の先生にはできないことができた。不良の友人にとって、学校の先生は勉強を教えてくれる存在ではないし、自分たちの気持ちや考えを理解してくれる存在ではなかった。僕は、彼らの仲間であり、勉強を教えることができた。つまり、彼らにとって、僕は先生よりも役にたったってことだ。
それでいい。学校の先生はとても大事だし、僕には先生の変わりを務めることはできない。でも、先生にできないことが、僕にはできたってこと。それでいい。
人は多様な存在で、それぞれが独自の能力を持っている。そういった独自の能力を生かせるような仕組みがあれば、どれだけ人はのびのびと生きることができるだろうか、どれだけ社会は活性化されるだろうか。
僕が日本に帰ってきて一番強く感じることは、そういった個々の能力を生かすという考え方が非常に弱いということ。みな決められたルールにのっとり、決められたやり方で、決められたしゃべり方で、自己を表現しなくてはいけない。果たしてそれは本当に自己を表現しているのだろうか。
僕が中学校時代に不良仲間に勉強を教えていたけど、それは素晴らしいことだと思う。(自画自賛でごめんなさい)
別に、不良生徒のための特別クラスを設けなくてもいい。不良生徒にも仲間がいて、共に勉強すること、それぞれがそれぞれのペースで勉強すること、そういった価値観で教育を行うことが重要。
日本は全体主義が強い。Totalitarianismという。
基本的な価値観は、「官」とか「お上」が承認して初めて価値観になる。
別に世間一般で認められなくてもいい。小さな町の路地裏で細々とやっていることでも、そこに内包されている新たな価値観や手段が価値のあるものであるなら、そこがスタート地点である。
以前から言っているけど、日本は暗黒時代を生きているようだ。みな同じ黒いスーツで、冬になれば皆同じコートをはおる。暗黒時代の肖像画を見ているようだ。
いいじゃないか、いろいろやれば。もちろん、いろいろやっている人もたくさんいる。
しかし、とても窮屈な思いをして、いろいろやっていることは確かだ。
僕の中学校時代の不良友達がそうだった。
アメリカに行ってびっくりしたことは、大学で優秀な成績を収める学生の考え方や気質は、僕の中学校時代の不良友達のそれとそっくりであったこと。想像力豊かで、自律していて、責任感が強く、自分の考えに正直。
そして、そういう人間が、リーダーシップを持ち、社会に貢献していく。民間の活力が高まる。
とても生き生きして、のびのびした社会である。
日本は、そういう人材の芽を摘んでしまっているように思う。
コミュニティ・オーガナイザーはまさにそうした多様な人々の援護者である。ソーシャルワークとは人を助ける仕事ではない。人がのびのびと生きられるような基盤づくりをし、援護する役割である。
ルネッサンスの開拓者である。

2007-06-28

Democratization

最近ちょっと気になっている言葉で、「民主化」という言葉がある。といっても、一般的には普段の生活の中で、この言葉を耳にすることはないと思うし、僕が特殊な世界で特殊な人種の人たちと特殊な本ばっかり読んで特殊な議論を行っているから、「民主化」などという言葉が気になったのだと思う。これが、たとえば十数年前であったら、当時はまっていたNBAのネタで、たとえば5年連続ダブル・ダブルの成績を残しているパワーフォワードがインディアナ・ペイサーズからトロント・ラプターズにトレードされたことなどが気になっていた、とか、そういうレベルの話だと思う。いずれにしろ、マニアックな話であることには変わりない。
さて、「民主化」の話に戻るけれど、たとえばどういう文脈で「民主化」の話が出たかというと、アジアの国家の中で構築されている社会的セーフティ・ネット(国民年金や、医療保険制度、公的扶助や、介護保険などの社会保障制度を指す)を南アジアの国家で整備することは可能かという議論に対して、ある台湾の先生が、たとえばインドのカースト制のような社会の民主的な枠組みが整備されていなければ、社会セーフティ・ネットを整備することは困難であるというようなことを言っていた。つまり、インドはまず「民主化」される必要があるという議論である。なるほど。
まぁ、その考え方はわかるし、理にかなっているといえよう。確かに生まれた時点で、国民の社会階層が設定されているところに、平等な社会保障制度を設けても、鯉と金魚が一緒にいる生け簀の中の金魚にえさをやろうとするようなもので、いくら餌をまいても足りないだろう。(あまりいい例じゃないですね、ごめんなさい。)
まぁ、その説明自体は置いておくとして、僕が気になるのは「民主化」という言葉の使い方なんだな。これは、ひょっとしたら僕のトラウマなのかもしれないけど、「民主化」という言葉を聞くとアメリカ合衆国大統領であるブッシュさんの顔が思い浮かぶ。ブッシュ大統領は「民主化」の旗印の下、他の国家の「民主化」を推進するという目的で軍力を用いた強引な国家介入をおこなってきている。その成果がどうであるとか、介入しなかったらどうなったとかは、ここでは議論しないけれど、大切なことは「民主化」という言葉が、強制介入を正当化するために用いられたということ。おそらく、ブッシュ大統領の言うところの「民主化」とは議員代表制で、選挙によって選ばれた国民の代表が国政をまかなうということだと思う。さらには、言論の自由とか、機会の平等とかいろいろあるとは思うけど、まずは議員代表制と選挙制を重要視しているようである。つまり、アメリカン・フリーダムの押し売りである。でもまぁ、言いたいことはわかる。
しつこいようだけど、ここでの問題は、「民主化」という言葉が何を指しているかだ。さらに言及すると、「民主化」という言葉を用いた時に聞き手に何を想像させているか、ということだ。
僕が思うには、「民主化」という言葉はプロセスのことである。Comprehensive Optimismの中でもいったけれど、民主主義とはあくまでも目的概念であり、理想とする状態のことである。その理想とする状態を目指して、失敗を繰り返しながらも日々前進することが「民主化」だと思う。つまり、インドが民主化されなければならないとか、韓国が民主化されたことで福祉国家となったと言った時に、「民主化」がある特定の時点を指して用いられているとしたら、そういう言葉の使い方はナンセンスだということ。「民主化」とはベクトルのことで、それ自体が何かを約束するものではない。民主化されるまでの国家を「悪」としたら、一度「民主化」された国家は、その時点からは「善」となるのか。民主化された国家の中にも根強い権威主義や差別が蔓延していることは確かである。だから、あまり安易に「民主化」という言葉を使わないほうがいいだろう。ブッシュ大統領が使う「民主化」とニューヨークのコミュニティ・オーガナイザーが使う「民主化」とでは、まったく違うものを指しているんだから。

2007-05-31

Operational Hypothesis

「作業仮説」とか訳されるのかな。とっても重要なことだし、COの最も得意とする部分だろう。
どういうことかというと、COは現実の複雑さにたいして働きかけるということ。
多くの政策はHypothesisの上に成り立っている。
Hypotheticalという言葉があるが、どういう時に使われるかというと、例えば「男女雇用機会均等法に従い当社では男女差別のない業務遂行を行っています」とある企業の人事部の人が言ったとすると、それに対して"What you are saying is hypothetically correct, but how realistic is that?"(あなたのいっていることは仮設的には成り立ちますが、どれくらい現実的な話でしょうか)というように使われる。
政策の話をする時に、多くの話は仮説の段階では成り立つものの、それを現実の世界で実行しようと思ったら、なかなか成り立たないだろう。例えば、日本の生活保護制度というのは、制度としては世界を代表するようなすばらしい制度であるという。国民すべての最低限度の生活を保障し、生活の状況に応じて、医療や介護、その他の社会サービス、児童に対する手厚い保護、教育支援と、制度そのものを見ると充実した政策のように見える。しかし、現実は、生活保護制度に対するスティグマや、受給したくてもできない現実、ケースワーカーは担当ケースが多く、きめ細かなケースワークができず、保護受給者の人で、さらに借金を抱えてしまっているケースも決して少なくない。しかし、それらの制度には収まりきらない問題に対しても細かな制度を作っていたらきりがない。ましてや、それが社会における人間関係の問題であったりしたらなおさらである。上で挙げた例のように、男女差別の問題や人種差別、文化の問題などどんなにすばらしい政策があっても、その中でどのように物事が機能するかを考えなくてはいけない。だからOperational Hypothesis(作業仮説)を考えることが大切なんだね。
社会には様々な影響(変数)が存在するため(無限といってもいいよね)、仮設がどのように作用されるのかを考えなくてはならない。
先日、Crashという映画を見た。アメリカの人種差別と良心の話。人の中に存在している良心とは裏腹に、又は表向きの顔やステレオタイプとは別に人種差別の構図が成り立っている。その中で、どのようにして仮説を立てることができるだろうか。単純にアフリカ系アメリカ人は白人系アメリカ人によって抑圧されている存在であるからとか、社会的な立場が違うからというようなことは、現象的にある一定の関係を実証することができたとしても、Crashの中で行われているような、様々な不確定変数を計算することは不可能といってもいいだろう。というか、計算すること自体、無意味である。
ここで大切なことは、こうした社会の力動の中で作業仮説を立てるということは、つまり自己分析をするということなんだな。難しい話かもしれないね。関係性の不確定変数を計算することよりも、一人一人が自己分析をすることを進めることのほうが、よっぽど意味があるということ。
誰がこう思っていて、彼の肌の色は何色で、彼女はこういう価値観をもっていて、その人の友人はどういう立場で・・・・なんてことを言っていたらきりがない。でも、そういう細かいことが社会の中ではとっても重要だったりする。生活保護という生存権を保障するはずの制度が、様々な個人的理由からすべての保護受給者の生存権を保障し切れていないことが何よりの証拠!
だとしたら、最も有効なアプローチは自己がどのように確立するか、自分が社会の中でどのような存在であるかをそれぞれが分析することが有効なのではないだろうか。人間は多様な存在である。多様性を認めて、多様性を生かすような、そんなアプローチが必要だよね。Real Freedom for All.

120% of Obedience

今日は、戦略の話。
これまでにも何度か書いてきたけど、Henry D. Thoreauが著したCivil Disobedienceという本がある。これは、「市民的不服従」と訳されるが、本の内容は、市民としての責任を全うするためには、政府が決めたことに対して何らかの不服従の態度を示すことが重要であるということが書いてある。彼が用いている例は、市民の代表として選ばれた政府の代表者がスペイン戦争(メキシコ侵略)を敢行した際に、その政府を選出した市民の責務として、何らかの不服従の姿勢を示す必要があるということである。そこで、彼は納税を行わなかったことで刑務所へ送られる。しかし、彼はそれは市民としての責任と考えている。後に、こうした彼の平和的な不服従のアプローチをもとに、キング牧師ガンジーなどが非暴力による不服従という市民活動の形を再現したことは有名である。
さて、こうした「不服従」であるが、市民としての不服従は、対象が「公」であり、市民社会は市民の集合体であるという前提で成り立っている。つまり、市民社会の一員として、不服従の態度をとることは、公共性の確立を意味する。不服従というが、それは不服従ではなく、責任のまっとうであるという論理が成り立つ。
しかし、我々は「市民」としての顔以外にも様々な顔を持ち、様々な関係の中で生きている。
例えばそれは、上司と部下であったり、先生と生徒であったり、親と子であったりする。そこでは、「市民的不服従」のロジックは成り立ちにくい。なぜなら、そこには特別な関係が成り立っているし、上意下達の関係が普遍的に成り立っていることがある。特にそれが労働者と雇用主であると、労働という自己の商品化を通して関係が成り立っているわけである。まぁ、ここでマルクスや労働の話には入るつもりではないので、止めておくが。
さて、僕らが毎日生きていると、そうした特殊な関係の中に生きていることを思い知るし、いつのまにかそれに慣れてしまって、感覚が麻痺してしまっているかもしれない。だから、いつしか自分が上に立つ人間になったときに同じプロセスを繰り返すことになるだろう。
さて、こうした「非人間化」の関係性の中で、どのようにして人間性の確立を行うことができるのであろうか。「不服従」という選択肢をとらずに。
僕の経験の中で最も効果的な方法は、120%の服従である。100%の服従とはつまり、上の立場のものの意向に100%従うということである。頼まれたことは、どんなにいやなことでも、忙しくてもすべてこなす。考え方なども、基本的にすべて受け入れる(ここで大切なことは、受け入れるということであって、心から同意する必要はない)。つまり、相手の意向をすべて満たすわけである。相手の意向をすべて満たしたときに、相手を飲み込むことができる。そこで、さらに相手が求めている以上のことを実行すると、それはすべて自分の経験となる。つまり、上の立場の者のコントロールが及ばないこと、想像力を超えたところで自己を表出することが重要なのである。その時に、上の立場のものは困惑する。自分の支配下にあるものが、自分が求めていることをすべてこなし、さらに自分の名の下に行動をとる。それは、上の立場のものにとっては誇らしいことかもしれないが、自分の想像を絶することであり、どのようにしてコントロールしていいか困ってしまうかもしれない。大切なことは、相手をすべて飲み込み、さらにそのうえでプラス・アルファを行うということである。これが、120%服従の理論。
もちろんそれが、暴力的な関係の上に成り立っていたり、身に危険を及ぼすような関係にあるときには、通用しないかもしれないし、気をつけなくてはならないかもしれない。しかし、我々が近代国家の人間関係の中で、頭を悩ましている上下関係のようなものにはたいてい成り立つ。しかも、労使関係の中には抜群の効果を発揮することは自分の経験の中で実証されていると思う。
この理論の唯一の欠点は、死ぬほど努力しなくてはならないということ。相手の要望を満たすことだけでも大変であるが、さらにプラス・アルファとなると相当の努力が必要なので、ある程度計画的実行する必要がある。相手にとって脅威となるまでに、何ヶ月、何年くらい努力できるか。戦略である。
なんだか、このように書くとまるで、緻密な反抗のように見えるかもしれないが、反抗ではないと思う。大切なことは、これは気づきのプロセスであるということ。上に立つものにとって、相手をコントロールするということはどういうことなのか、又はコントロールできなくなったときに、その関係は成り立つのか、実は主従関係とは、上に立つものさえも非人間化してしまうのである。その非人間化された状態に気づくプロセスを下にいるものが成長することで、作り出すということ。つまり、上意下達の関係を上の者から解除する、解除せざるを得ない、又は自分を人間化するためには解除せざるを得ないような状況にもっていく。これを逆に、主従関係や、自分の力が及ばない立場に納得いかないからといって、最初から反抗していたら、おそらく非人間化のプロセスはますます進むだろう。Condition of Originが成り立っているからね。
なんだか、だらだらと書いてしまったが、今自分が抱えているストレスフルな関係や、非人間化された関係をもう一度見つめなおして、戦略的に人間化するプロセスを考えてみたらどうだろうか。120%の服従には確かに努力が必要だが、その戦略がある程度明確になることで、不思議なほどのエネルギーが生まれてくるものである。

2007-05-19

世界の問題の裏側

いやぁ、眠い。眠いけど、いっちょ書いておくか!
ということで、一昨日から台湾の社会政策学会の会長である陳先生と事務局長の古先生が来日し、同志社大学と日本の社会政策学会で講演をされた。その中で、陳先生の講演の内容は「社会的セーフティネットとグローバル化における社会・経済格差」というものだった。ここで、陳先生はグローバル化の影響により、アジア諸国に限らず、世界中の国々で、同様の課題が発見されていると説明された。
例えば、少子化や高齢化、家族構成の変化、経済的投資と経済の国際化、政党政治などを挙げることができるということだ。具体的には、出生率が低下したり、独身者や、単親家族、国家以上の経済的影響力を持った多国籍企業の出現や、政治の形骸化などにつながるという話。なんだか、漢字だらけで、ちょっと僕のブログっぽくなくなってきたので、そろそろ話をいつもののりにします。
こんな陳先生の話を聞いていて思ったことは、社会の問題といわれることは、問題と見るから、問題なのではないだろうかということです。養老孟司さんが「バカの壁」という本の中で書いているけど、失業率が高いことっていうのは、そんなに問題なのだろうか。そもそも、人が働かなくても生きていけるというのは、人類の長年の夢だったのではないだろうか。確かに、仕事をしないことで、本人が落ち着かなかったり、人生における充実感を失ってしまうことは、問題かもしれないけれど、仕事をしないで、自分が本当に従事したいことに打ち込むことができる世の中って言うのは、理想なのではないだろうか。職がなくても、ご飯を食べて生きていける人がたくさんいるって事は、人類が長年求めていたことではないのか、そんなことを養老さんは書いている。
同じようなことが、例えば少子化や高齢化にも言うことができるのではないだろうか。
何事も「問題視」するから問題に見えてしまうけれども、もう少し正の部分に光を当てると、例えば、少子化というのは女性の社会進出が進んだ結果であるし、高齢化というのは保健・衛生が整い、平均寿命が延び、介護や医療が整備されていることを意味するし、家族構成が変わったということは、結婚や離婚の選択肢の幅が広がり、決められた家族の型にはまらなくてもよくなったということで、結婚という選択肢を選ばないカップルや、同性愛者の家族、両親から離れて自立して暮らす子供など、いろいろな選択肢が提供されているということだと思う。また、多国籍企業の出現によって、世界規模で技術革新が進み、科学の進歩が急ピッチで進んでいる。その結果、宇宙工学やナノテクノロジーへの投資も可能となり、宇宙や人間、生命体に関する探究が進められているわけである。そもそも、人類が何世代にもわたって繰り返し問い続けてきた「我々はどこから来たのだろう」「私は誰」「死とは何を意味するのか」といった疑問に対して、科学的に取り組み、この100年ほどで、人類は躍進的にその問いに答えるための歩みを進めることができたといえるのではないだろうか。ちょっと、ロマンチックになりすぎかなぁ。
また、最後の政党政治の問題は、まさに民主主義の問題である。確かに、政党政治になり、市民にとっては選択肢ができたようで、実は党の力の奪い合いのゲームに巻き込まれて、本当に市民が望んでいることが政策に反映されていないかもしれない。しかし、チェック&バランス機能は間違いなく増している。封建社会では、王や皇帝などが、独裁的に国の指針を決めていたが、現在の政治構造にはそうした独裁的な動きを抑止する仕組みが内包されているし、民意の反映という意味では格段に柔軟な体制になっていることは確かである。何事も、比較概念で考えることはよくないけれど、50年とかのスパンで見る限り人類は確実に民主化の道を歩んでいると思う。
ここで大切なことは、そういったことを50年とか100年とか300年とかのスパンで考えることだと思う。実は、陳先生の述べたことはほとんど、アメリカの建国者たちが思い描いていたことだと思う。アメリカのFounding Fathersと呼ばれる人たちはかなり大きなスパンで、アメリカという国を、そして人類における民主化の流れを築いた。今日のアメリカの政策を思想的に見ると、いまだに当時の考えとそう変わっていないということは良くわかると思う。
つまり、おそらく問題があるとしたら、近代を生きる僕らが目先のことばかり見ていて、100年単位でものを考えることができていないということだと思う。これだけグローバル化が進み、技術が進歩し、宇宙の仕組みが分かってきても、僕らの頭の中は目先の3センチくらいしか見ていない。皮肉なものですね。
ちょっと歩みを止めて、ゆっくり考えなくてはいけないね。一日じっくり考えるだけで、100年単位で、物事が変わるかもしれない。一日を100年につなげるのも、オーガナイザーの役目ですね。
友達をちょっと川原の散歩に誘うことから、物語は始まるのかもしれない。鴨川がいいかなぁ。

2007-05-14

Comprehensive Optimism

こんなにBlogから遠ざかっていたのは、初めてかもしれません。
実は、その間いろいろと下書きをしたりもしたのですが、どうも肩に力が入ってしまってる感じでよくない。学者病ですね。このブログで書きたい本質的な部分に関するネタは、コミュニティ・オーガナイザーとして働いていたときのほうが豊富だったように思います。研究職になると、どうも頭でっかちになってしまいよくない。感性が、失われますね。
さて、そんなことで、今日は肩の力を抜いて、短いものをぱっと書いて、寝ます。
今日、同志社大学Martha Mensendiek先生の授業にゲスト講師として呼ばれたので、同志社大学の3回生に対して僕がニューヨークでコミュニティ・オーガナイザーとして働いていたときの話をした。特に、CO道のテーマでもある"Comprehensive Optimism"に関して話してきた。Googleでこの言葉を検索しても、あまりぱっとした検索結果が出てこないし、CO道のホームページが5番目に出てくるということは、まぁ、そんなものって事ですね。これは、僕の造語ですが、きっと誰にでも理解できることだろうし、特にCOの経験を通してその考え方が血肉に染み入るものだと思います。
まぁ、それはいいとして、今日思ったことは、コミュニティ・オーガナイザーに必要な条件は、1に計画性、2に優れた事務能力、3にここぞというときのリーダーシップ、だということです。
それは、Comprehensive Optimismにもつながると思う。何かを継続的かつ具体的に積み重ねることが、Optimismを持てるということです。これに限る。
PessimismやOverwhelmingnessとは、現実と理想のギャップによって生み出される。つまり、現実をgrasp出来ないときに、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまったり、悲観的になるということ。その解決方法は、まずリラックスして、一つ一つこつこつやること。ましてや、コミュニティにおいて、複数の人間が、共通の目標を持ち、行動を共にするとなると、個人の持つイメージと、他のメンバーの持つイメージのギャップからその船が自ら沈没してしまうことがある。大切なことは、まずリラックスして、周りを見回して、人とつながり、具体的に行動する。コミュニティ・オーガナイザーとはそういった、一連のプロセスを側面から支える役。
今日の90分の講義で、それがどこまで伝わったかなぁ。なかなか難しいものですね。

2007-01-27

Critical Thinking 1

本質を見なくてはいけない。今回のブログで書ききることはできないと思うし、まだまだ自分の考えがまとまっていないから、中途半端になってしまうと思うけど、とりあえず言葉にしていくプロセスは大切だし、そのためのブログでもあるから、お聞き苦しい文章になってしまうかもしれません。
日本の大学にはcritical thinkingの授業はあるのだろうか。って、一応僕も日本の大学に所属している身なので、それくらい知っておくべきだろうけど。ちなみに僕がNYで通っていたLaGuardia Community Collegeでは主に一般教養の授業を受けていたけど、critical thinkingの授業がプログラムとして組まれていました。よく日本では「批判的思考」と呼んだりするみたいだけど、どちらかと言うと「本質の見方」みたいなものだよね。人が言っているからとか、メディアが放送しているからとか、先生や上司が言っているからとか、先祖代々繰り返してきたからとか、そんな理由で自分の価値観や考え方を決めず、そういった周囲の意見や考え方、歴史の変遷、現在の状況などを理解したうえで、自分が物事を判断する。グッチのかばんが流行っているから、みんなグッチのかばんを使うとか、ヨガが流行ったらみんなヨガを始めたり、人気モデルのような容姿にみんなであこがれたり、きっとそうして世間一般が認めるということは、その中に本質的な要素が含まれていることは確かだと思う。確かにグッチのかばんはいいものだし、ヨガは健康にいいし、モデルの人たちの容姿は「肥満=不健康」というロジックで見ると理想的かもしれないし、エロスを内包しているかもしれない。以上で挙げたようなものは、消費者としての選択肢がある中で、世間一般やメディアの影響を多分に受けたうえでの自己決定になると思うけど、それが消費者ではなく、社会の役割となったときにどうだろうか。例えば行政職員とか、建築士とか、医者とか、教師とか社会の基盤をまかない、その仕事の内容が公共性を内包している役割を持つときに、その人たちが取る行動や下す決定が不特定多数の人々に影響を及ぼすことになる。そしてソーシャルワーカーもまさにその一端を担うわけだけど、ソーシャルワーカー、特にその中のコミュニティ・オーガナイザーに至っては、そうした他の専門職が下した決定や判断に対してクリティカルであることが求められる。つまり、公共性watch dogなわけだ。公共に対して影響を与える立場の機関や職員が進める事業や提供するサービス、法律などを「平等性」「公平性」「権利」などのフィルターを通してクリティカルに見なくてはいけない。その中で、「平等」というものは非常に複雑な要素が絡むものであるということを理解しておく必要があるし、権利を主張することが最終的に全体にとってプラスになるかどうかを考えなくてはいけないし、プラスにならないかもしれないけど(三歩進んで二歩下がることは前進である!)、リスクを負うことを恐れずに「物事の本質」に忠実に判断を下さなくてはいけない。これは政治や、学校教師、消防士、ごみ収集職員にに対しても同じことが言えるだろう。ソーシャルワーカーはそうした公共性に対するゲートキーパーなわけだ。だから、コミュニティのニーズを把握し、現在のシステムによって被害を被っている人たちの立場に立って、社会全体にとっての触媒にならなくてはいけない。これって、結構難しいことだね。そんでもって、ソーシャルワーカーでなくてもそうしたことをコミュニティで行っている人は多く存在する。 市民が協力してゲートキーパーになることが望ましいだろう。そのためには、ある程度の組織化が必要だし、いずかれのタイミングでコミュニティ・オーガナイザーが必要になってくる。卵が先か鶏が先かということだ。
なんだか、長くだらだらと書いてしまったけど、結局は物事の本質を見抜く文化を広げることが大切だろうね。そのために、コミュニティ・オーガナイザーが胸を張って目を見開いて見本となることが大切。

Facilitator

最近ファシリテーターという言葉を良く聞く。アメリカでCOを勉強したら、いちばん最初に学ぶことであり、いつまでたっても大切なことなわけだけど、日本にもだんだんとこの言葉が浸透してきているようだ。
実は昨今、COに関する論文を訳してて、facilitateをどう訳すべきか悩んだ。悩んだ末、カタカナ表記にした。本来,こういう重要な言葉、特に人が行動を取るときにイメージとして機能する言葉は、できるだけ母国語表記がいいと思う。ただし、このサイトでもCOをCOとししまっているだけに、あまり大きなことは言えない。(アルファベットだもんなぁ・・・。)
そこで、何とかしてファシリテーターの日本語を開発したいと思う。今回の話は、そんなことのヒントになるかもしれない。
上川徹という人がいる。日本サッカー会を代表する審判であるし、世界トップレベルの審判である。
2006年、ドイツで開催されたワールドカップの三位決定戦の主審を務めた。そんな上川さんの審判スタイルは、まさにファシリテーターのそれである。上川さんは試合中、ラフなプレーができるだけ増えないよう心がける。試合がスムーズに進み、スタジアム全体がひとつとなり、納得の行く試合運びの中、お互いが全力を出し切って決着がつけられるよう、お膳立てをする。そのためには、悪質なプレーに対して厳しく毅然とした態度をとるし、避けることができなかった反則については、選手の一所懸命なプレーを盛り上げる形で、笑顔で反則を取る。スタジアムと言う与えられたフィールドで、二つのチームが全力でぶつかり合う、ボールは一つ、世界中からこの試合を見に集まってきた何万人の観衆。最高のゲームが行われるはずの素材はすべてそろっている。あとは、素材そのものの味を生かす料理人の腕にかかっている。ファシリテーターとは、そんな料理人のことなんだな。
上川さんが常に気をつけることは、冷静さを失わずに、常に自分の感情の動きを理解することだと言う。自分が会場の雰囲気に飲み込まれてしまったり、感情的になってしまったら、素材に対して余計な手を加えてしまう。だから常に、平常心を保つよう心がけている。そして、プレーヤーに対して耳を傾け、語りかける。相手の目を見て、自分が下した判断を理解してもらう。コミュニケーションをとる。
簡単そうで難しいこと。COの学校を始めたら、ここら辺からじっくりやりたいね。

2007-01-19

Curiosity

僕は、そもそも争いごとが好きではない。これは、なぜだろうか。
相手よりも優位な立場に立つことは、いやなものではないが、相手と一対一で勝つということに、快感を覚えない。どちらかと言うと、優劣の結果と言う「答え」が持つ可能性の限界のようなもの(というよりも、可能性の限界を設定するような感覚)に魅力を感じない。二人が協力することで、いろいろな可能性を秘めているはずなのに、二人のなかで優劣を決めること自体、たとえそれが将来的に逆転するにせよ、窮屈さのようなものを感じてしまう。何で、その窮屈さを感じるのかはわからない。確かに、切磋琢磨することでお互いが能力を引き出しあうことができると言う構造は理解するし、否定もしない。
おそらく僕が求めているものは、人間の脳をひたすら絞って生まれてくるエキスではないような気がする。つまりは、自分の外からの様々な刺激によって生まれる「新しいもの」に対して好奇心があるのだと思う。自分の脳をひたすら絞って、相手とぶつかり合ったって、そこから生まれるものには限界があるけど、地球や宇宙から受ける、たくさんの不確定要素を取り込むことで生まれてくる、未知の世界のようなものに惹かれているのだと思う。だから、競争社会よりも、多様性を受け入れる社会の方がずっと居心地がいいし、楽しい。
そんなことを、羽生善治さんと茂木健一郎さんの対談(「勝負する脳!」2007年2月発売)を読んでいて思った。それは、羽生さんが相手の先を読む将棋の限界を感じて、新たな可能性を秘めたうち方を試み始めたことに通じると思うし、茂木さんが言う、本来、得と思われない行動を取るときの人間の真理に隠された「長期的に見ると、そこに何かいいことがあるかもしれない」という感覚と同じだと思う。
そもそも、COとはそうした多様な考えの中に秘めた可能性を抽出するような活動だと思う。みんながお互い競争しあって、一番を決めて、その一番が決めるルールにのっとって生きていたって、全然発展性がないものね。それだったら、みんなでいろんな可能性があるということを探り合って生きていた方が発展性がある。でもまぁ、生産性という言葉になると、弱いかもしれないけどね。僕は、ここで生産性の議論をしたいのではなくて、人間の中に秘められた、好奇心と言う名の発展性の話だから、労働の商品化の話とかには言及したくないし、全く見当違いになってしまう。
コンピュータが確実に勝つ将棋の打ち方を計算しつくしたからって、競争による発展に限界が来たとは思わないし、コンピュータのめまぐるしい発展で計算による論理的な思考が一定のレベルに到達したなどとも思っていない。そもそも競争が好きではないので、論理的vs.創造的みないな構造自体、考えてもいない。
大切なことは、可能性を秘めた生命体同士が結びつくことによって生まれる可能性の相乗効果をどのようにつくりだせるかと言うことだと思う。みんなバカじゃないので、好奇心を求めながらもちゃんと生産的な生活をするわけだからさ。今必要なことは、どうやって創造的で発展的な思考の渦を作れるかということでしょ。そんでもって、それに向かって、どうやって行動するかってことでしょ。