2007-01-27

Critical Thinking 1

本質を見なくてはいけない。今回のブログで書ききることはできないと思うし、まだまだ自分の考えがまとまっていないから、中途半端になってしまうと思うけど、とりあえず言葉にしていくプロセスは大切だし、そのためのブログでもあるから、お聞き苦しい文章になってしまうかもしれません。
日本の大学にはcritical thinkingの授業はあるのだろうか。って、一応僕も日本の大学に所属している身なので、それくらい知っておくべきだろうけど。ちなみに僕がNYで通っていたLaGuardia Community Collegeでは主に一般教養の授業を受けていたけど、critical thinkingの授業がプログラムとして組まれていました。よく日本では「批判的思考」と呼んだりするみたいだけど、どちらかと言うと「本質の見方」みたいなものだよね。人が言っているからとか、メディアが放送しているからとか、先生や上司が言っているからとか、先祖代々繰り返してきたからとか、そんな理由で自分の価値観や考え方を決めず、そういった周囲の意見や考え方、歴史の変遷、現在の状況などを理解したうえで、自分が物事を判断する。グッチのかばんが流行っているから、みんなグッチのかばんを使うとか、ヨガが流行ったらみんなヨガを始めたり、人気モデルのような容姿にみんなであこがれたり、きっとそうして世間一般が認めるということは、その中に本質的な要素が含まれていることは確かだと思う。確かにグッチのかばんはいいものだし、ヨガは健康にいいし、モデルの人たちの容姿は「肥満=不健康」というロジックで見ると理想的かもしれないし、エロスを内包しているかもしれない。以上で挙げたようなものは、消費者としての選択肢がある中で、世間一般やメディアの影響を多分に受けたうえでの自己決定になると思うけど、それが消費者ではなく、社会の役割となったときにどうだろうか。例えば行政職員とか、建築士とか、医者とか、教師とか社会の基盤をまかない、その仕事の内容が公共性を内包している役割を持つときに、その人たちが取る行動や下す決定が不特定多数の人々に影響を及ぼすことになる。そしてソーシャルワーカーもまさにその一端を担うわけだけど、ソーシャルワーカー、特にその中のコミュニティ・オーガナイザーに至っては、そうした他の専門職が下した決定や判断に対してクリティカルであることが求められる。つまり、公共性watch dogなわけだ。公共に対して影響を与える立場の機関や職員が進める事業や提供するサービス、法律などを「平等性」「公平性」「権利」などのフィルターを通してクリティカルに見なくてはいけない。その中で、「平等」というものは非常に複雑な要素が絡むものであるということを理解しておく必要があるし、権利を主張することが最終的に全体にとってプラスになるかどうかを考えなくてはいけないし、プラスにならないかもしれないけど(三歩進んで二歩下がることは前進である!)、リスクを負うことを恐れずに「物事の本質」に忠実に判断を下さなくてはいけない。これは政治や、学校教師、消防士、ごみ収集職員にに対しても同じことが言えるだろう。ソーシャルワーカーはそうした公共性に対するゲートキーパーなわけだ。だから、コミュニティのニーズを把握し、現在のシステムによって被害を被っている人たちの立場に立って、社会全体にとっての触媒にならなくてはいけない。これって、結構難しいことだね。そんでもって、ソーシャルワーカーでなくてもそうしたことをコミュニティで行っている人は多く存在する。 市民が協力してゲートキーパーになることが望ましいだろう。そのためには、ある程度の組織化が必要だし、いずかれのタイミングでコミュニティ・オーガナイザーが必要になってくる。卵が先か鶏が先かということだ。
なんだか、長くだらだらと書いてしまったけど、結局は物事の本質を見抜く文化を広げることが大切だろうね。そのために、コミュニティ・オーガナイザーが胸を張って目を見開いて見本となることが大切。

Facilitator

最近ファシリテーターという言葉を良く聞く。アメリカでCOを勉強したら、いちばん最初に学ぶことであり、いつまでたっても大切なことなわけだけど、日本にもだんだんとこの言葉が浸透してきているようだ。
実は昨今、COに関する論文を訳してて、facilitateをどう訳すべきか悩んだ。悩んだ末、カタカナ表記にした。本来,こういう重要な言葉、特に人が行動を取るときにイメージとして機能する言葉は、できるだけ母国語表記がいいと思う。ただし、このサイトでもCOをCOとししまっているだけに、あまり大きなことは言えない。(アルファベットだもんなぁ・・・。)
そこで、何とかしてファシリテーターの日本語を開発したいと思う。今回の話は、そんなことのヒントになるかもしれない。
上川徹という人がいる。日本サッカー会を代表する審判であるし、世界トップレベルの審判である。
2006年、ドイツで開催されたワールドカップの三位決定戦の主審を務めた。そんな上川さんの審判スタイルは、まさにファシリテーターのそれである。上川さんは試合中、ラフなプレーができるだけ増えないよう心がける。試合がスムーズに進み、スタジアム全体がひとつとなり、納得の行く試合運びの中、お互いが全力を出し切って決着がつけられるよう、お膳立てをする。そのためには、悪質なプレーに対して厳しく毅然とした態度をとるし、避けることができなかった反則については、選手の一所懸命なプレーを盛り上げる形で、笑顔で反則を取る。スタジアムと言う与えられたフィールドで、二つのチームが全力でぶつかり合う、ボールは一つ、世界中からこの試合を見に集まってきた何万人の観衆。最高のゲームが行われるはずの素材はすべてそろっている。あとは、素材そのものの味を生かす料理人の腕にかかっている。ファシリテーターとは、そんな料理人のことなんだな。
上川さんが常に気をつけることは、冷静さを失わずに、常に自分の感情の動きを理解することだと言う。自分が会場の雰囲気に飲み込まれてしまったり、感情的になってしまったら、素材に対して余計な手を加えてしまう。だから常に、平常心を保つよう心がけている。そして、プレーヤーに対して耳を傾け、語りかける。相手の目を見て、自分が下した判断を理解してもらう。コミュニケーションをとる。
簡単そうで難しいこと。COの学校を始めたら、ここら辺からじっくりやりたいね。

2007-01-19

Curiosity

僕は、そもそも争いごとが好きではない。これは、なぜだろうか。
相手よりも優位な立場に立つことは、いやなものではないが、相手と一対一で勝つということに、快感を覚えない。どちらかと言うと、優劣の結果と言う「答え」が持つ可能性の限界のようなもの(というよりも、可能性の限界を設定するような感覚)に魅力を感じない。二人が協力することで、いろいろな可能性を秘めているはずなのに、二人のなかで優劣を決めること自体、たとえそれが将来的に逆転するにせよ、窮屈さのようなものを感じてしまう。何で、その窮屈さを感じるのかはわからない。確かに、切磋琢磨することでお互いが能力を引き出しあうことができると言う構造は理解するし、否定もしない。
おそらく僕が求めているものは、人間の脳をひたすら絞って生まれてくるエキスではないような気がする。つまりは、自分の外からの様々な刺激によって生まれる「新しいもの」に対して好奇心があるのだと思う。自分の脳をひたすら絞って、相手とぶつかり合ったって、そこから生まれるものには限界があるけど、地球や宇宙から受ける、たくさんの不確定要素を取り込むことで生まれてくる、未知の世界のようなものに惹かれているのだと思う。だから、競争社会よりも、多様性を受け入れる社会の方がずっと居心地がいいし、楽しい。
そんなことを、羽生善治さんと茂木健一郎さんの対談(「勝負する脳!」2007年2月発売)を読んでいて思った。それは、羽生さんが相手の先を読む将棋の限界を感じて、新たな可能性を秘めたうち方を試み始めたことに通じると思うし、茂木さんが言う、本来、得と思われない行動を取るときの人間の真理に隠された「長期的に見ると、そこに何かいいことがあるかもしれない」という感覚と同じだと思う。
そもそも、COとはそうした多様な考えの中に秘めた可能性を抽出するような活動だと思う。みんながお互い競争しあって、一番を決めて、その一番が決めるルールにのっとって生きていたって、全然発展性がないものね。それだったら、みんなでいろんな可能性があるということを探り合って生きていた方が発展性がある。でもまぁ、生産性という言葉になると、弱いかもしれないけどね。僕は、ここで生産性の議論をしたいのではなくて、人間の中に秘められた、好奇心と言う名の発展性の話だから、労働の商品化の話とかには言及したくないし、全く見当違いになってしまう。
コンピュータが確実に勝つ将棋の打ち方を計算しつくしたからって、競争による発展に限界が来たとは思わないし、コンピュータのめまぐるしい発展で計算による論理的な思考が一定のレベルに到達したなどとも思っていない。そもそも競争が好きではないので、論理的vs.創造的みないな構造自体、考えてもいない。
大切なことは、可能性を秘めた生命体同士が結びつくことによって生まれる可能性の相乗効果をどのようにつくりだせるかと言うことだと思う。みんなバカじゃないので、好奇心を求めながらもちゃんと生産的な生活をするわけだからさ。今必要なことは、どうやって創造的で発展的な思考の渦を作れるかということでしょ。そんでもって、それに向かって、どうやって行動するかってことでしょ。