2006-02-13

東京ボランタリーフォーラム

先週末は東京ボランティア・市民活動センターが主催した東京ボランタリー・フォーラム2006に参加してきた。実際には、参加するだけではなく、「地域の拠点」という分科会でニューヨークでの経験の事例報告(パワーポイント)をさせていただいた。日本に帰国して7ヶ月過ぎても、「昔取った杵柄」である。20名の参加を想定して行ったこの分科会は、ふたを開けてみれば30余名の参加、しかも老若男女さまざまな人に参加していただけた。当初は、若い人の参加を予想していたが、高齢者の方もたくさん参加され、定年退職後に地元で事業を始められた方など、とても参考になる話を聞くことができた。
最近、アルバイトで特別行政法人福祉医療機構から過去に助成を受けた団体のヒアリング調査を行っているけれども、何よりも感心することは、助成を受けた中でも、優良事例として取り上げられている団体の中心人物(リーダー)の多くが中高年の女性という点である。中高年の女性には代表役がふさわしくないということではない。むしろその逆で、中高年の女性たちが、長い年月をかけて思いを形としてきた活動がさまざまな形として実り、今日の市民社会を支えているという事例を多く見て、こういったアクター抜きでは今日の市民活動は語れないと思った次第である。
今回のフォーラムでも、まだボランティアや市民活動暦が浅い人なども、積極的に新しい取り組みを行っていたり、新たな発想で周囲の人の参加を促したりと、多くの地に足のついた事例を聞くことができた。もちろん、成功話と同じくらいの苦労話も絶えないわけで、どちらも含めて、それぞれがお互いの思いに対して共感していた。今回の分科会を一緒に行った、墨田区、興望館の館長さんもおっしゃっていたが、フォーラムの重要性とはその内容はもちろんのころ、第一線で事業に取り組んでいる人たちが思いを共有することに意義があるんだと。まさにそのとおりだと思う。Self-Supportが必要なのは、社会的な弱者だけに限らない。福祉事業に取り組んでいる人たちも、お互いの思いを共有することで、エンパワーできる。そういった意味では、今回のフォーラムは僕自身がエンパワーされた会であったし、多くの人が同じ気持ちで帰路についたと思う。
こういった会が、より身近に行われることで、市民社会を支える人材が育っていくんだろうと思う。アメリカでも、Community ForumやTown MeetingはCOテクニックとして、多くのオーガナイザーが重要視している。また、世界的にもWorld Social Forumなどの国際的なフォーラムが行われていることを考えると、こうしたフォーラムというのは21世紀の市民社会形成において、必要不可欠なツールなのかもしれない。

2006-02-04

We speak the same language

さて、このブログもすっかり御無沙汰になってしまいました。というのも、最近は福祉の現場からずいぶん遠ざかってしまってるからなんだよね。NYでの仕事を辞めて、ちょうど8ヶ月くらい経ったかな。
日本に帰ってきてから、福祉のフィールド、NPO、市民活動、行政、研究などの現場を見てきて、いろいろ勉強させてもらっているけど、やっぱり自分がフィールドにいないと何で福祉について考え、学ぶ必要があるのかがわからなくなってきてしまうような気がする。でも、日本に帰ってきてから友人などサラリーマンの生活の現状を見てきて思ったのは、夢も希望もない雇用状況だけど、今はとりあえず働くしかないといった悲壮感に満ちた生活状況を何とかしたいなということです。(僕の勝手な理解なのかもしれないけどね。)そんなこと言っても、今の日本の経済状況からして、贅沢は言ってられないとか、そういった議論ではなく、選択肢と機会のある社会になればいいとおもう。選択肢が無くて、不満を抱えた現状を維持することしかできないという状況が一番苦しいとおもう。
まぁ、そういった気持ちを持ちながらいろいろ考えているけど、結局何もできていないから、内側と外側のバランスが崩れてきつつあります。その結果が、「言語」の問題なのかなとおもう。
ここでいう「言語」とは人と人が繋がるための思考回路といったことだけど、もっと平たく言えば、相手の気持ちになって話ができるかということだとおもう。これって、オーガナイザーにとってはすごく大切な資質なんだよね。英語の表現で"We speak the same language"という言い回しがあるけど、これは「英語」をという言語を話しているということではなくて、例えば、初めて誰かと出会って話をしていると、同じ思考でものを考えていることにお互い気づいて、すっかり一致団結したときにこういう言い回しをよくします。
福祉のフィールドに限らず、人と何かを協力して行うということは、お互いの意思の疎通がとても大切で、ましてや福祉となると、とかく慈善活動と受け止められがちなだけに、当事者とソーシャルワーカーの間の関係でどこまで感覚を共有できるかというのはひとつの課題であると思う。ソーシャルワーカーの立場としてセツルメント・ワーカーのように現場に住み込んで(昔の話だけど)当事者の立場に立って物を考えるというアプローチもあれば、ケース・ワーカーのように自分の担当するケースから一線を引いた立場を重要とする考えもある。
しかし、オーガナイザーにとって、多くの人と感覚を共有できることって、大切な資質だと思う。オーガナイザーの役割とはコミュニティの声や隠れたニーズを読み取り、ひとつの声としてまとめることで、個人では解決不可能な問題に対して働きかけるための触媒のようなものだと思っている。しかし、その触媒がさまざまな要素と反比例していたのではいつまでたってもコミュニティはひとつにまとまらない。だからこそパートタイムのオーガナイザーなんていうのはありえないわけである。
そういう理由からか、現在自分がフィールドを持っていない状態がどうもしっくりこない。誰のためにどういった活動をして、自分がどのように成長するべきなのか見えてこない。ちょっと脱線するけど、中学や高校で受験勉強をしろといわれてもまったくその気になれなかったのは、誰のための勉強かと言うのがわからなかったからだと思う。想像力の欠如なのかもしれないけど、自分の能力が誰かの生活向上に役立つというつながりが見えないと、何のために勉強するのかが見えてこなくなる。それもLanguageにつながると思うんだよね。
いくら高度な社会福祉政策などを学んでも、いざ現場にそれをもって行く際に全く違ったLanguageに変えないと当事者には全く通用しない。当事者が理解できない限り、参加型のまちづくり・民主主義なんてものは成り立たない。だからこそ、オーガナイザーの触媒としての役割って言うのは大切なんだな。
最近現場から離れて、勉強ばっかりだから、だんだん現場のLanguageを話せなくなってきている。早く現場に着かないとな。