2006-09-28

Accountable for Accountability

近年日本でもよく耳にする「説明責任」。英語ではAccountabilityです。
説明責任と言う言葉は,多くの場合政府に向けて使われる。それは,政府は憲法に基づき行政をつかさどり,市民・国民の税金によって公務を行っているからである。つまり,日本という国家が存在し、さらに地方公共団体が国内に配置されていることで、僕らの生活には何かしら政府が介入するということである。
つまり、説明責任を求めるという行為は、そうした一国民、一市民、一生活者として当然の権利である。それをひっくり返せば、説明責任を求めないということは、権利の放棄と取られてもおかしくない。
アメリカでは、そうした説明責任を要求するアドボカシー専門の団体はたくさんあり、政府に対するWatch Dog(番犬or見張り役)として機能しています。イギリスではCompact Championという役割があり、行政とボランタリー団体との協働関係を見張るということです。行政オンブズマンのようなものかな。
というように、政府のAccountabilityを求めるうえで、市民は権利を行使する方法を様々な形で編み出しているわけです。つまり、市民は行政のAccountabilityを求めるためにもAccountableである必要があるということですね。「説明責任」ばかりを繰り返して、具体的に行政のAccountabilityを向上させるような仕組みを自発的に作らない限り、いつまで経っても真の意味でのAccountabilityというものは生まれないでしょう。
行政が「説明責任」を果たす事に対する「説明責任」は誰が果たすの?ということですね。
つまり、市民が「説明責任」という言葉を用いる際には、同時にその説明責任を問うだけの知識・情報を求められるということです。それも相当の専門知識が必要になるわけです。そのためには、アドボカシーの専門集団を組織化するような体制が必要でしょう。さらには、それを資金面で支援する民間(企業)との協力関係を築くことが重要になってきますし、さらに、そこに企業との癒着や談合などがないような仕組みづくりが必要となるわけです・・・。低信頼社会っていうのは大変ですね。果たしてこの流れは人類の文明の進歩に寄与しているのだろうか・・・。

2006-09-20

A Rock Star

Take a risk and free your soul.
ロックスターの使いそうな文句だが,コミュニティ・オーガナイザーにも当てはまるんじゃないだろうか。
コミュニティ・オーガナイザーを含むソーシャルワーカーはクライエントのニーズにもとづいて行動をとる。これは基本中の基本だと思う。ここで言うところのニーズとはブラッドショーの言うところのNormative Needs, Relative Needs, Perceived Needs, Expressed Needsを含む。つまり,クライエントが求めているニーズだけではなくて, 専門職としてクライエントのニーズをアセスする必要があるわけである。そうして得たニーズにもとづき行動をとるわけだが,ここでネックとなるのは,ワーカーに降りかかる様々な社会的拘束や経済的,時間的,空間的限界である。例えば,今クライエントにとって必要なものが低価格の住居だとする,しかし,ワーカーが公営住宅に募集しても何年間も待たなくてはいけないという現状を知っているがために応募するに至らないとか,あまり無理なお願いをすると,行政の住宅問題を扱っている部署の職員との関係がこわれるとか,自分の所属している団体は住宅問題を専門に扱っていないとか,クライエントのニーズとはまったく関係ないところで障害を作ってしまうわけである。それと同時に,市場主義で成り立っている住宅事情を知っているがために,家賃の安い物件など無いし,それを探している時間も無ければ,労力も無い。と言うように,自分で限界を勝手に設定してしまうわけである。
こうした限界を築くことはオーガナイザーにとっては致命傷である。オーガナイザーは,現状の社会体系や,システムでは解決不可能な問題に対して,より広範囲で,時には政治的に,働きかけることで社会変革を促すわけである。そうした社会変革を促すことは,限界を設定しない志と,理想を描き出す想像力を要する。つまり,Take a risk and rock your soul.なわけである。リスクを負って,自分の心に準じた行動。つまり,ちょっと変人にならなくてはいけない。社会に円満している価値観からは変人と見える行為でも,クライエントの立場に立ったら理がかなっているかもしれない。オーガナイザーは,社会的な価値観も考慮したうえで,変人に成りすますことが重要である。それが,2月の寒空の下凍えながら,何百人の住民を巻き込んで,市庁舎の前で市長に向かって廉価な住宅の必要性を訴えることになっても,そこに正当性がある限り,そしてクライエントのニーズに準じている限り,まったくもって意味のある行為なわけだ。
今の日本にはもっとロックスターが必要な気がする。