2006-08-03

徒然コメント

今回は、最近思っている事を、徒然なるままにしたためようと思います。

まず其の一。ソーシャルワークの倫理綱領と儒教の関係。
そもそもソーシャルワークの倫理綱領とは、葛藤の上に成り立っているものである。倫理とはそういったもの。その葛藤を理解して初めて、倫理綱領の意味がある。例えば、アメリカのソーシャルワーク教育でありがちな例として、こういうのがある。水面下での人種差別がまだまだ根強く、クライアントの殆どが低所得層の黒人の地域の施設で働く白人のワーカーは、自分の中に存在する人種差別の価値観とどのように付き合うか。また、所属している施設の理事はみんな白人の裕福層で、白人のシングルマザーと黒人のシングルマザーが施設を利用しようとしているときに、白人を優先するような価値観が当たり前のように成り立っていたらどうするか。ソーシャルワーカーとしては、誰でも平等に扱うことが大切だし、本来、人種差別を助長するような行為は許されない。しかし、その地域の当たり前の価値観として、黒人でシングルマザーの人はたくさんいて、白人でシングルマザーの人は少ないから、白人に対しては、何か特別な措置が必要かもしれないと、そのワーカーは感じるかもしれない。しかし、それは倫理綱領に反することになる。しかし、理事の意向もあり、やはり白人のクライアントを優先して、支援することになるかもしれない。
まぁ、こうした、日常の価値観と、ソーシャルワーカーとして倫理との葛藤というのは、結構当たり前の話で、大切なことは、この葛藤を無視せずに、理解するということ。これは、結構勇気と根気が要る。つまり、当たり前の価値観に疑問を投げかける必要がある。疑問を投げかけるにあたり、倫理綱領の存在が重要になってくるわけだ。というか、当たり前の価値観を疑問に感じることで初めて倫理綱領が機能するといえる。
そんな中、日本の社会には、その根底にたくさんの日本独自の価値観が存在していて、価値観の上に、暗黙のルールが山ほど存在する。それが、社会の規範を作り出しているわけで、この規範を無視したり、反抗していたら、とても日本の社会では生きていけない。こんな当たり前なことだからこそ、その日本独自の価値観が、ソーシャルワークの価値観(倫理)とバッティングすることは日常茶飯事のはずである。例えば、あるケースに関わっている関係機関の人が、自分よりも年配である為にソーシャルワーカーとしての価値基準も年配の人優先になる、なんてことは当たり前だと思う。職場での先輩・後輩関係が仕事上の決定事項に大きく影響を及ぼすことも多いと思う。こうした、日本独自の価値観とソーシャルワークの倫理との葛藤のようなものを研究している人が、一人もいないということが不思議に思う。
人権宣言を掲げている地方自治体は少なくないが、その職員がどこまで普段の生活の中で男女差別を容認しているか、外国人に対しての差別を持っているか。日本は、倫理綱領の概念を海外から借りてきて、作っているけれど、日本の社会に当てはめてつかえていなかったら、何の意味があるのだろうか。
まず、これが一つ目の徒然コメント。

其の二。日本のソーシャルワークにおける役割モデルの必要性。
これは、上で書いたことと多少なりとも重なると思うんだけど、日本のソーシャルワーカーと仕事をしてきて感じたことは、自己と仕事上の役割とを切り離すことができていないワーカーが多いように感じる。これは、感情的にならないとか、客観性を重要視するとか言うレベルの話ではない。べつに日本のソーシャルワーカーの文句を言いたいわけではなくて、一つのテクニックとしての役割モデルの重要性をおさえておきたい。
例えば、一つのクライアントに複数のワーカーが関わっているとする。自立を支援する上での鍵は、本人の気持ちの変化であるが、ソーシャルワーカーの付き合い方次第では、クライアントやその家族の心の変化やエンパワーメントの状態も大きく変わってくる。そこで、例えば二人のワーカーが、仕事に一生懸命なあまり、クライアントに対し、二人して自立を促し、プレッシャーをかけ続けたら、どうなるだろうか。または、二人していい顔して、「なかなか自立に踏み切ってくれないねぇ」と、顔を見合わせていたらどうだろうか。これは、ワーカー同士が、お互いの意見を尊重したり、先輩・後輩関係を重要視しすぎてしまうために、クライアントにとって最適と思われる接し方では無く、ワーカーたちにとって最も安全で、無難な接し方をしてしまうという、よく陥りやすい落とし穴だ。日本のワーカーを見ていると、このパターンにはまってしまう人が多いように感じる。
そこで、役割モデルを勧めたい。役割モデルとは、例えば、クライアントと接する前に、誰が交渉役で、誰がなだめ役で、誰が養護役で、誰が説得役かなど、面接時の役割を明確にしておくことが大切である。(子どもを叱るときの、お母さんとお父さんの役回りみたいなものね。)その役割を果たすことで、例えば、面接中に、一人のワーカーの意見をもう一人がわざと否定することで、クライアントの気持ちに変化を与えるなど、高度な面接技術を用いることができる。逆に、面接時に、みんながみんなお互いを気遣っていたら、突っ込んだ話に発展する前に、きっかけもつかめずに面接が終わってしまう。面接を行うとき、ワーカーはアクターである。自分(達)をどのようにクライアントの前に提示すると、新しい空気を送りこみ、心の変化や、考え方の変化を作り出せるのだろうか。それをプライオリティーにもってくれば、自然と自分の役割が見えてくるのではないだろうか。そういった意味で、ドラマセラピーなどの技法から学ぶことは多いと思う。

其の三。法と政治とお金にまつわる話。
COは法や政治やお金のオルタナティブと考えられる。
我々は法の下に平等であると定義されているものの、実際には、法の目が届かないところで多くの不平等が行われており、また、不平等な法律さえ存在する。そういった、不平等に対して、弱者は、政治力を使うか、お金を使うか、または、仲間を集めて、声を大きくして、不平等の是正に対して働きかけるかである。同じように、政治力の無いものは、法の力を使って言及するか、お金の力を使うか、または、人を組織化するかである。同じように、お金の無いものは、法の力を使うか、政治の力を使うか、または、人を組織化するか。
しかし、多くの場合、法と政治とお金は一握りの者が支配していて、その他大勢は、法や政治やお金の力に支配されている。そこで、COは、そうした力の無い者達が自分たちを組織することで手に入れることのできる、交渉権であり、力である。もちろん、そんなに単純な話ではないけれども、多くの場合この考え方は当てはまる。
そこで、アクティビストと呼ばれる人たちは、人を組織し、いたずらに法や政治や資本に対して反抗する。その先の答えを考える前に、まずは反抗する。そして、反抗すればするほど、法や政治やお金の力を思い知らされることになる。
例えば、あまり法にこだわりすぎると足元をすくわれてしまうが、不平等であると思われる法に対して、何が、どのように不平等であり、それに対してどのような法の改正を行えばよいのかを明確にしたうえで、人を組織化し、交渉すれば、より効果的な結果を導き出すことができるのではないだろうか。それは、政治や資本に対しても同じことが当てはまる。
コミュニティ・オーガナイザーは住民参加を促し、人の組織化をより民主的なプロセスで行うことがその専売特許だが、さらに、法、政治、財政の理解を深めることで、より効果的なCOが展開できるのではないだろうか。

以上、徒然なるままに好き勝手書いてみました。

2006-08-01

Dreams & Hopes

先日、東京で行われたSPSNの10周年記念シンポジウムに参加してきた。格差社会に関して、社会学を代表する三名の先生方がそれぞれの視点から発表を行い、討論者二名を用意するという、とても充実した内容であった。格差社会に関しては、以前も、CO道の中で書いていて、最終的には、社会教育の必要性や、 ローカルエコノミーの仕組みづくりなどに関して触れて終わったけれど、今回のシンポジウムでも、似たような話が出ていた。特に、若年失業者(ニートや引きこもり、フリーター)に対しては、就業訓練以前の、高校教育レベルから、専門的な教育を行う必要性があると、東京大学本田先生(『「ニート」って言うな!』の著者)は話されていた。僕、個人としては、これに関して賛成しかねる。専門的な教育の必要性よりも、社会学習の機会など、社会と触れ合う機会を幼い頃から持つということが、必要なのではないだろうか。僕の知人で、南アフリカ人の女性がいるんだけど、彼女のお父さんは、ダイヤモンド商をしていることもあって、自分の子ども達に、幼い頃から、何かを作らせたり、売ったり、サービスを考えたりさせて、ちょっとした商売をさせるらしい。そこで、彼女は妖精が好きだったので、妖精に関するグッズを集めたり、作ったりして、それを地元の人に売ったり、そのうちインターネットで売ったりする事をしていたという。結構なお金になって、自分でしっかりとお小遣いを稼いでいたらしい。つまり、アントレプレナーとして子どもを育ててるわけだね。まさに、幼い頃からの自立を促しているわけで、30代になっても親から自立していない日本の「子ども達」とは全くの対照です。
それはさておき、今回のシンポジウムに出て感じたことは、SPSNというグループは社会政策に関して議論することを目的としているのだけれど、やはり、政策の議論だけでは、何だか、根本的な部分が欠けているような気がした。それは、高校から専門的な訓練を行うという提案を一つ取ってみても感じられるんだけどね。
例えば、今回の議論の枠組みとして、ポスト工業化時代の国家財政があり、北欧のような福祉国家を築くことができなかった税制が指摘され、若者や、女性、ホームレスなどに対する、社会政策の遅れが取り上げられていた。そういった話を聞きながら、アメリカの事をちょっと考えてみた。特にニューヨークでは世界中から集まってきた移民が溢れかえり、不法滞在や不法就労も当たり前、社会保障を受けられない者への人道的な対応を余儀なくされている。しかし、そんな過酷な状況におかれていても、夢や希望をもって暮らしている人が多く存在し、人生の楽しみ方を知っている人が多いような気がする。その理由は、ソーシャルワークの援助技術が進んでいるというような問題ではなくて、一定の価値観を共有しているコミュニティから生まれるバイタリティのようなものからくるのではないだろうか。経済的に発展している状態にあるということも、もちろん大切な要素ではあるが、ある程度の経済・産業的インフラの基盤が整っていることは、日本にしても同じなわけで、あとは、そのインフラをどのように住民が主体的に利用できるかが鍵となる。その主体性の根源が「夢」や「希望」ではないだろうか。
僕の南アフリカの友人の話に戻ると、南アフリカでは、小学生の女の子がちょっとした商売をしようと思ったら、それを可能とするインフラが整備されているわけで、それが、第一の条件となる。次に、それを行うために、その女の子が主体性を持って取り組むバイタリティのようなものが必要になるけど、それは、女の子が大好きな妖精のアイテムを取り扱うということで条件をクリアする。つまり、女の子は自分の好きな妖精のアイテムをより多くの人に持って欲しいという夢を持って商売を始める。しかし、商売ごとは必ずしもうまくいかないものである。それは、周りの人々が妖精のアイテムに興味を持たないかもしれないからである。このことは、市場を理解する上では、とても大切な教訓である。自分の夢をかなえるためには、そしてその見返りとしての収入(お小遣い)を得るためには、他の人が求めるものを取り扱う必要がある。そこで、より現実的に夢をかなえるために、女の子は、マーケット調査をしたり、市場を広げたり、より希少性のある商品を選んだりと、試行錯誤するわけで、それこそが、社会教育なのである。
こうした、社会教育の場所は、商売ごとに限らず、ボランティアや、地域での活動を含めて社会に溢れている。あとは、それをどのように利用するかであり、その利用のためのハードルをクリアするかである。
人が夢を持つためには、自分の能力や価値観を認めてくれる人の存在が欠かせない。以前、CO道の中で団塊の世代は、自分たちの子どもの能力や価値観を認めない傾向にあるといった事を書いた。本来親がすることが望ましいと思うことだが、本人の能力や価値観を認めることこそソーシャルワーカーに求められるクオリティなのではないだろうか。その人が、自分の意思をもって、自立して生きていく上で、その根源となるバイタリティを引き出す手助けをすることは、社会の制度や枠組みを作り出すことと同じくらい重要なことのような気がする。いや、むしろ、人の心が伴わない社会政策など、砂上の楼閣と言ってしまいたい。人のこころや、生き方に関わることは、本当に困難である。だからと言って、それを客観的に現象として捉え、対策を考えるのではなく、どのようにして、そのこころや生き方を生かして社会に反映できるか。それがCO道の考え方である。
さらに余談だが、先日世間を騒がせた欽ちゃん球団の萩本欽一さんは夢についてこんな事を言っていた。「夢をかなえるためにはたくさんの人を巻き込んで、たくさんの人に迷惑をかけないといけない」。全くそのとおりだ。自分の夢に向かって走る事を恐れて、他人への迷惑ばかり考えて、迷惑の責任を取るガッツも無くては、人生何も達成できない。どんどん、人を巻き込んで、失敗しても、それを理解してもらえるように、心から人と付き合っていかないと。夢とはそんなものじゃないかな。