2006-07-04

Border-less Society

先日、日本社会福祉学会が開催した第2回政策理論フォーラムに参加してきた。第一回目についても、このブログで書いたけど、今回は、地方分権化の政策形成に社会福祉は寄与できるかと言うテーマでシンポジウムが行われた。札幌で行われたと言うこともあり、100人ちょっとの参加であったが、 その内容はとても濃いものであった。
政策の視点、財政の視点での発表、そして、実践を行ってきた元鷹巣町町長を含めた実践論者の発表と、後戻り無しのシンポジウムであった。学者は、比較的自分の立場を守るためにも、あそこまで幅広い視点を盛り込んだシンポジウムにはなかなか参加しないものだと思うが、それぞれが、それぞれの経験と専門性から、主義主張を行い、最終的には「研究者がいかに政策形成に寄与できるか」や「社会福祉がいかに政策形成に関与できるか」といった部分にまで到達した。本来は、そういった議論から始まってもいいと思う。
さて、今回は、フォーラムの内容ではなくて、別のことについて書きたいと思う。今回の旅行中、札幌市内を観光する時間が多少あったので、有名な赤レンガ庁舎(旧北海道庁)へ行ってきた。なかなか立派なこの建物の中には、北方領土に関する資料館もあった。ここで学んだことは、終戦後、当時のソビエト軍が北方領土を占領したわけだけど、占領下においても、多くの日本人がそこに暮らしていたと言うことだった。ある意味、誰が国を占領しようと、奴隷のように強制労働を強いられたり、何かしらの自由が剥奪されない限りは、健全な経済活動を行うことで、基本的には生活は変わらないと思う。しかし、ソビエトが北方領土占領後に行ったことは、ロシア語を公用語とし、日本の貨幣の使用を禁止した。つまり、文化的な抑圧を行ったと言うことだ。これは大きい。
今回のコラムで僕が伝えたいことは、「北方領土返還!」といった政治的なメッセージではない。大切なことは、個人の視点から北方領土の占領を考えることだと思う。個人に対しての直接の影響力を考えたとき、マクロレベルでどの国が戦争に勝ったとか、負けたと言うことは、そこまで大きくはないと思う。もちろん、国の代表を精神的な支えとしてきたものにとって、その代表者を失うことは精神的なダメージとなることは理解できる。しかし、例え敗戦であったとしても、戦時中より、終戦後のほうが平穏な暮らしを得たというケースがほとんどの戦争に当てはまるのではないだろうか。だとしたら、何故ゆえに生死をかけて戦争を行う必要があるのか。それは、文化や習慣という、自己を形成している重要な要素を奪うという暴力的な行為に対しての反発から来るものと思われる。人間の全体性を考えたときに、言語や、習慣、信仰、風習などの生活のバックボーンを失うということは、自己を否定されるも同然であり、例え衣食住といった生活の保障があっても、自己の存在理由という面での存在否定になるだろう。
そうした、自己の存在を否定するような環境は、戦争や植民地化に限らず、60年以上戦争を経験していない日本においても多く見られるのではないだろうか。例えば、会社が倒産したため、自己破産申請を行い、離婚を余儀なくされ、家族と離れてホームレスとなった人や、受験戦争について行くことができず、学校を中退し、引きこもりとして暮らしている若者たち、または、社会のレールから飛び出す勇気を持てずに、自己の価値観と社会の価値観の違いに葛藤を持ちながら、自殺という選択肢を選んだ人たち、さらに付け加えると、自殺という選択肢を選ぶ事はしないものの、自分の存在理由を肯定することができずに、葛藤を抱え、精神疾患を患うもの。戦争や、暴力的侵略の被害者ではないものの、社会的・精神的な被害者である、こうした人々は、社会の難民であり、心の難民である。
近年ヨーロッパでは、こうした状況にある人々に対して、Social Exclusion(社会的排除)という言葉を用いて状況を説明し、Social Inclusion(社会的包含)という政策目標を掲げている。若年失業者などもその対象である。こうした政策的な言葉を用いることで、問題の社会化は可能であるが、逆に、問題の脱人間化が進んでしまうと思う。個人の責任を問わない脱個人化とは違い、脱人間化は、一人ひとりのポテンシャルを引き伸ばすことで問題に対峙するというスタンスが失われることにある。つまり、社会的排除などという言葉を用い、社会的な問題を明確にすることで、逆に個人個人がそれぞれに抱えている問題をぼやかしてしまう。
コミュニティ・オーガナイザーの対象は社会であり、コミュニティであり、集団である。しかし、それは、その社会や、コミュニティや、集団における「個人」に目を向けないということではない。個人の集合体として成り立っている、社会、コミュニティ、集団を変えるのは、マクロな政策だけでは無く、個人の考えや、気持ち、態度、モラル、規範、習慣、信条、信仰などであり、有機的な個人の変化をマクロの変化に結びつけることがコミュニティ・オーガナイザーの役割である。本当に、それだけの話。それが、難しい。
戦争や、侵攻による力の植民地化・奴隷化と同じ、いやそれ以上に、社会の仕組みや政策によって引き起こされる社会的・精神的植民地化・奴隷化は人々の人生に影響を与える。そして、社会を根っこから腐敗させる。オーガナイザーはそうした土壌に鍬を入れて、耕し、社会にとって最善の土壌を用意することをやっていかなくてはならない。この、鍬を入れるのが大変なんだけどね。

Public Assistance

先日,初めて,生活保護の申請に大阪府A市の福祉総務課窓口へ行った。社会貢献事業の仕事を始めてから,こうしたケースワーク的な内容の仕事が多くて,大変勉強になる。ケースワークを通して,より具体的なニーズアセスメントが可能になると思う。ただ、その具体的な部分にばっかり注目していると、視野に全体性がなくなってしまうから難しいものだ。
さて,生活保護の話に戻るけど,検索エンジンで「生活保護」と検索して,上位に引っかかるホームページの中に立命館大学立岩真也先生のページがある。このページでは日本の生活保護受給率の低さを指摘し,生活保護受給の必要がある(特に障害を抱えている)若者に対し,生活保護申請を勧める内容の文章がある。それは,生活保護制度は日本国家が憲法第25条が規定する理念に基づいて,国民の最低限度の生活を保障するという考えからくる。
世界的な傾向としては,福祉国家が機能しなくなりつつあり,新自由主義的な経済成長を基盤とした脱福祉国家化が進んでいて,アメリカでは,1996年のSocial Welfare Reform以降WorkfareやWelfare to Workと言った,就労を通して公的扶助からの脱却を助長するような政策が取られてきている。こうしたなか,日本でも三位一体の改革を通して,地方分権化が進んでいるが,この改革の焦点は財政再編であり,つまり社会保障費の削減と言うことになる。細かい政策情勢なんかは,ここで書くつもりは無いけれども,何よりも一番大きい編成は生活保護という,国家が憲法によって保障してきた国民の最低限度の生活を,地方公共団体が代わりに責任を持って保障する(させられる?)に至ったことにある。立命館大学の山本隆先生の言葉を借りれば,ナショナルミニマムがリジョナルミニマム,またはローカルミニマムになったと言うこと。つまり,地域間格差を認めると言うことだね。これは前回も話していた,格差社会の構造を一層強めるように働くでしょう。
さて,ちょっと政策の話をしてしまいましたが,今回僕が触れたいことは,生活保護申請における水際作戦の話。行政の業務では法や制度で決められた事業をマニュアルどおりに遂行することを求められるわけで,つまりは,融通が利かないことを前提とした仕組みになっている。もし,行政の業務に融通を利かせる必要があるなら,融通の利いた法が必要になる。法とは基本的に,社会の仕組み,人間の生活・利害関係に関連した内容となっているんだけど(どの法律も,桜の咲く季節や,水の沸点を決めるようなものでは無い),社会や人間って物は多様であり,またコンスタントに変化するものであるため,そもそも規範を作ること事態が困難なわけだ。とは言っても,そこには,ある程度の秩序が必要なわけで,夜警国家に始まり,社会の秩序調整のために国家,つまりは法の役割が強化されて,近代国家が発展してきた経緯がある。
そのような国家が,国民とのコンタクトを行ううえで,水際作戦が必要となる。水際作戦とは行政の職員が,行政窓口で法の融通をコントロールする仕組みである。それが,生活保護の申請,つまり,「国民の最低限度の生活の保障」となると,これは,相当融通の利いた判断を必要とされる。いや,本来は融通の利いた判断をしてはいけないものだけれど,あまりにも明確な判断基準を設けることで,生活保護制度が,生活困窮や何かしらの事情で生活保護を必要としたものへのセーフティネットよりも,フリーライダーを後押しするための選択肢としての要素が強まってしまう。つまり,生活保護制度は,水際作戦によって申請者にフィルターをかけ,インフォーマルな調整を行うことで,セーフティネットとして成り立つと考えられる。もっと福祉っぽく言ってしまえば,means-testを用いた選別を「最低限度の生活」と言うあいまいな概念の下行う必要がある。
で,具体的に何が水際作戦かと言うと,申請者や受給資格者に対して,申請をより困難にするべく数々の質問を行い,あらさがし(と言うよりも,この場合,いいとこ探し)をするわけである。結果的に,何度も窓口に行って,追い返されて,申請をあきらめると言うパターンに追い込むわけである。予断だけれど,最近僕が発見した水際作戦の中でも,極悪だと感じたものは,パソコンのアンチウィルスソフトのカスタマーサービスである。日本のパソコンユーザーがウィルスソフト業界のいい顧客であることは消費者教育のレベルの低さを露呈している格好だが,それをいいことに,何もわからずに,とりあえずアンチウィルスソフトをオンラインで購入してしまうユーザーが多いと思う。そして,何か問題が生じても,カスタマーサービスに問い合わせるには,有料の電話サービスか,ネット上のUnaccountableなフォームメールのみという始末。あれは,ひどい水際作戦だった。
こうした,水際作戦のinjusticeに対して,立岩先生は,どんどん生活保護申請をしなさいとおっしゃってるわけだ。まぁ,ここでは,生活保護制度自体の話や,利用の肯定・否定といった話はしません。ただ,コミュニティ・オーガナイザーの視点で一言書かせてもらえるなら,水際作戦に対して乱暴に法の定義を持ち出したり,役場の職員に対して暴力的な態度を取ることはお勧めできません。なぜなら,上でも述べたとおり,日本では生活保護制度を機能させるためには水際作戦がどうしても必要で,その制度に対しての不満を,末端の職員にぶつけても焼け石に水だからですね。そんでもって,もし,政府が水際作戦をやめたら,国の予算における社会保障費が激増し,瞬く間に世界でもトップレベルの「不健康な国家」となる。かといって,国家のために生活保護申請を自粛するべきとは思わない。大切なことは,窓口の職員と申請者とのコミュニケーションを円滑にして,Accountableな関係を築くことである。生活保護申請窓口の職員は,相手の目を見て話す事をしない。「Yes」とも「No」とも言わず,申請者が諦めるように話を進める。一方で,申請者は水際作戦に必死に抵抗するために「権利」という盾を武器に,横柄で傲慢な態度を取りがちである。つまり,双方が,信頼関係を築くと言う立場に立たずに,コミュニケーションを始めてしまっているところに問題の所在があると思う。申請者は,職員を信じ,職員がどんなに面倒な条件を付けてきても,可能な限り対応して,保護申請の正当性を証明して欲しいと思う。申請を却下されることを恐れずに,「却下」と言う市の判断を尊重し,同時に「却下」と判断されても生活が成り立たないのであれば,その旨を伝えるために,何度でも窓口に行く,そして,にっちもさっちも行かない状況を理解してもらう。「保護を受けて当たり前」「だから、何とかして拒む」という不健全な会話をdialogueに切り替える。そのファシリテーションを行うことも,オーガナイザーの重要な役割であろう。
国家が税制を用いて,国民の生活保障を行うという枠組みは,2006年の現在もとりあえずは機能している。この仕組みが,長く続くとは思えないが,社会制度の円滑化を進め,市民社会の発展を促し,政府と市民がAccountableなガバナンスを確立するためにも,生活保護制度を,市民が責任を持って使いこなすことは,重要なプロセスであると思う。生活保護を自分たちの制度と考え,自分たちでmanageすることが,今日の壊滅状態である生活保護制度を再び機能させる第一歩なのではないだろうか。